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ヴァレンティノのキャンペーンムービーはなぜ炎上したか

 イタリアのハイブランドVALENTINO(ヴァレンティノ)のキャンペーンムービーが炎上している。

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 木村拓哉の次女であるKōki,木村光希をモデルに、気鋭のフォトグラファーFish Zhangを演出に迎え、2021年春夏シーズンのキャンペーンとして公開されたものだが、「日本文化を冒涜している」と批難が殺到。VALENTINOは公式サイトやSNSから該当ムービー及び写真を取り下げ、以下のような謝罪文を公開する事態となった。

 

 公式の該当ムービーはもう見られないので、まだご覧になっていない方は転載動画など電子の藻屑を探すしかないが、この動画は寺山修司の映画『草迷宮』にインスパイアされたもの」だったとVALENTINOはいう。ちなみにこれは炎上してからの言い分ではなく、キャンペーン当初から開示されていた情報である(現在はムービーと共に取り下げられてしまったが)

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 僕個人はVALENTINOには何の思い入れもないのだが、10代の頃からずっと寺山修司のファンであり、映画『草迷宮』にも多大な影響を受けたひとりである。今回のキャンペーンムービーの是非はひとまず置いておいて、なぜこのムービーが「オマージュ」と受け入れられることに失敗し炎上してしまったのか。寺山修司卒業論文まで書いた1フリークとして、ここが悪手だったのではないか、と個人的に感じている点を3つ挙げたいと思う。

 

 

①寺山の日本への風刺的側面に気が付けなかった

 寺山修司は自身の著作や映像作品の中で、「日本の土着風景」というものを執拗に描いている作家だ。これは寺山の故郷・青森に対するアンビバレントな感情の現れで、そこには田舎を懐かしく恋しく思う気持ちと、反対に田舎は捨て去るべき呪縛的存在であるという気持ちが共存している。彼が日本の古い土着的な風景を強烈に、強調して描く理由には、郷愁の念を謳う反面、カリカチュアライズ(風刺)の側面もある、ということだ。決して「日本の原風景サイコー!」ではないのだ。もちろん『草迷宮』に描かれている日本の土着的世界にも、そうした寺山の「田舎へのアイロニー」的側面が見え隠れしている。

 ゆえに、『草迷宮』を引用しておきながら「日本文化に敬意を込めて作成された」と言うのはちょっと無理がある。そもそものオリジナルが、日本や日本の田舎のカリカチュアとしての側面を持っていたからだ。オマージュ元として寺山修司を選んだ感性は面白いが、そうした寺山の風刺に気が付けなかったのはマズかったのではないか、と思う。

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②文脈を無視して表層だけ引用した

 キャンペーンムービーの中で一番問題視されているのが、「着物の帯を想起させる布の上をヒールで歩く」というポイントだろう(VALENTINO側は謝罪文に「着物の帯」ではなく「着物の帯を思わせる布」と書いている)

 この描写は『草迷宮』では、主人公が千代女という狂女が住む土蔵に引き込まれていくシーンと、そこから逃げ出すシーンで登場するものだ。『草迷宮』の主人公は亡き母の面影を探して放浪している青年なのだが、この女物の帯をたどり歩いて行くという比喩は、母を追い求める主人公の母恋しさを表現している。また寺山作品において「母」とは同時に呪縛的存在でもあったため、帯を踏むという行為が、母を踏みにじるという意味も同時に内包していたと想像される。

 以上のような文脈あっての「帯の上を歩く」という表現 を、表層  ガワ だけ抽出してしまったのが、VALENTINOのキャンペーンムービーであったように思う。

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 どんな表現も、前後の文脈なくしては成り立たない。過去作品から表現を引用する「オマージュ」というテクニックは、ゆえに文脈まで上手く引用できるか否かが重要なかなめになってくる。今回のキャンペーンムービーのような、説明に尺を割けない作品ほど、その難易度は飛躍的に上がってくるだろう。

 

 

③寺山作品の日本での認知度を把握できていなかった

 もちろんこの世には、文脈説明をしていないオマージュ作品も多数存在する。しかしそれらがなぜオマージュとして成り立っているのか。それは元ネタの知名度が高いからだ。例えば大友克洋AKIRA』で金田がスライドブレーキを掛けるシーンは、文脈関係なしに「このシーンだけ」があまたの作品に引用されている。それは『AKIRA』が今さら説明するまでもない有名すぎる作品だからだ。

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 そして大切なのは、「これがAKIRAのオマージュだと分からなくても、誰も傷つかない」というポイントだ。

 

 寺山修司という名前を聞いたことがある日本人は多いだろう。彼の残した詩や短歌は、今や国語の教科書にも載っている。しかし寺山が前衛的な舞台や映像を多数残していることや、その過激で挑戦的な表現の内実を真に理解している日本人は、実はそう多くはない。

 ゆえに、VALENTINOのキャンペーンムービーを目にした時に、オマージュへの面白さよりも、嫌悪感が先に来る人の方が圧倒的に多いはずなのだ。寺山作品の日本での認知度を把握していなかったのが、今回の失敗の一因だったように思う。

 そしてもうひとつの問題は、オマージュと分からなかった人が傷付く可能性のある表現だった、という点だ。先述した各作品のスライドブレーキのシーンは、たとえ『AKIRA』からの引用であると気が付いてもらえなくても、誰も傷付いたり不快に感じたりはしない。せいぜい見た人が思うのは「かっこいいブレーキの掛け方だな」くらいだろう。しかしVALENTINOのキャンペーンムービーは違った。帯はただの衣類の一部ではなく、日本の文化や芸術に深く関係がある特別なアイテムだ。それを踏むという行為は、『草迷宮』からの引用と知らなければ目を疑う表現だろう。いや、オマージュだと知っていても許せないという人だって多数いるかもしれない。それに関して、最後に以下の所感にまとめたい。

 

 

今回の騒動に対する個人的な所感

 そもそも寺山修司という人は、作品を発表するたびに猛烈な批判に晒されていた「お騒がせな人」だった。常識を疑い、世間を挑発し続けた彼の表現は、今で言う「炎上」と常に抱き合わせだった。

 それはもちろん『草迷宮』も例外ではない。「帯を踏み歩くという描写は寺山にとっての母恋しさと同時に母憎さの表現であった」ということは先ほど書いたが、それを聞いたところで帯を踏むという行為が許せない、という人もいるだろう。それは『草迷宮』公開当時も批判されたことかもしれない。しかしそうした「日本的な日本」に叛逆することが、寺山の表現のひとつだった。彼は旧態依然とした社会通念に喧嘩を売る異端児だった。それが正しいか間違っているかではない。それが寺山のやり方だった。

 ゆえに寺山のオマージュをするのなら、VALENTINOには「批判されても取り下げない」「炎上上等」くらいの覚悟がなければならなかった。その決意なくして、寺山のオマージュをするのは危険だったのではないか。寺山修司の「表現の面白さ」だけに目を付け、彼の「カウンター精神」を理解せずに引用したのが、今回の騒動の最大の失敗だったのではないか、と個人的には感じている。

 

※この記事はあくまで寺山修司の現代への有用性について考察したものであり、VALENTINO批判のために引用することを禁じます。