さかしま劇場

つれづれグランギニョル

メチルエフェドリン

  平成27年度 第32回 織田作之助青春賞 最終候補に残った作品です。

 

 

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 ジージーという機械音が耳奥の巻貝をくすぐって、ユンはまどろむような浅い眠りからゆうるりと引きもどされた。眼球にはりついた瞼のむこうに、陽の光を感じる。

 白い傷跡が無数に走るやせた四肢を伸ばして、犬のように大きなあくびをする。吸いこんだ空気が、いつもよりも湿ってひんやりとしていた。ろくに洗っていないシーツに染みこんだ汗のにおいや、部屋にただよう、甘ったるいシロップのにおい。それらがつめたくなって、まだ夢をみている鼻孔のやわらかなところを鋭利に突く。

 ベッドの枕元をまさぐる。ひしゃげたパッケージの中に、吸いさしのechoを見つける。チューハイの空き缶をいくつか床に払い落とすと、ラブホテルの名が印字されたオイルライターが現れる。金具のさびたその古いライターで、ユンは寝覚めの煙草に火をつけた。

 紫煙をあくびと共に吐きだして、少年の目はようやくパシパシと活動的にまばたきをはじめる。となりで眠っていたジョーカータトゥーの背中が見当たらない。

 床に転がったデジタル時計を見ると、08:46と表示されていた。こんな朝っぱらに起きたのは、数か月ぶりのことだった。

 ユンは真っ赤な髪がはね散らかった頭をがりがりとかくと、のっそりとベットから身を起こした。転がった茶色い小瓶をふまないよう、脱ぎすてた服の上に足をおろす。機械音は浴室から聞こえてきた。煙草をくわえながら、ユンは裸足でぺたぺたとそちらへ向かう。

 浴室をのぞきこむと、背の高い男が頭髪を剃っていた。カラフルに色づいたバスタブの中に立って、黙々とバリカンを動かしている。機械音はこのバリカンから聞こえていた。男の腕が上がるたび、背中の筋肉が引きのばされて、大きなジョーカーがにたにたと笑った。

 男の真っ白に染めた髪が、白熱灯の下、枝からすべり落ちた雪のようにバサバサと浴槽の底に落ちていく。バリカンが走ったあとには、染髪後に新しく生えた髪が数ミリだけ残っていて、長い冬を越えて雪解けの合間から顔をのぞかせた土のような、黒々とした道筋を作っていた。

 男は頭をすっかり五分刈りにしてしまうと、そこではじめてユンに顔を向けた。下瞼が腫れて、アイシャドウを入れたような濃いクマができている。頬のそげた、まるで太陽を知らないとでもいうような色の悪い面持ちで、彼は、おはよう、とユンに声をかける。ユンはそれには返事をせずに、

 オミ、おまえ、ほんとうにいくのか。

 寝起きのかすれた声でつぶやいた。オミと呼ばれた男は、剃り残しがないかを鏡で確認しながら、白けた微笑をかえしただけだった。

 ユンは吸い殻でいっぱいになった汚れた洗面所に、短くなったシガレットを放りこんで、だまって浴室の戸口から去った。

 履きつぶした靴が散乱した玄関には、大きな迷彩のボストンバッグがひとつ、無造作に放られている。昨日まで気にもとめなかったのに、今朝になって見てみると、胸のあたりがしめつけられるような気持ちがする。

 カーテンの隙間から、幾本もの輝く針のような朝日が差しこんでいる。その鋭いまぶしさを、ユンは光のない眼でぼうっと眺める。

 空き缶とレトルトの容器であふれかえった台所のシンク。閉まりきらない蛇口から三十秒に一回落ちるしずく。酒と缶詰しか入っていないワンドアの冷蔵庫。読み飽きたアダルト雑誌や、一足だけになってしまった靴下、ケースの割れたCD、からまった電線コード、そして数えきれないほどの茶色い小瓶で埋めつくされた床。

 この場所から、今日、オミがいなくなる。

 動悸がはげしくなって、ユンは息苦しさにとまどいイライラとする。一年近くオミと暮らしてきたはずの思い出が、急にクシャクシャになって、ちっぽけな、茶けた吸い殻になってしまったかのような気がする。

 どうしてなにもかも、こうしてどうしようもない紙屑のようになってしまうのか、ユンにはよく分からないでいる。



 ****



 オミとは、アンダーグラウンドのクラブで出会った。ユンはその晩、友人たちに誘われてクラブに足を運んでいた。理由はない。毎日つまらなかったから、ついてきただけ。

 狂ったように踊る友人を脇目に、ユンはひとりバーカウンターに訪れる。バーテンのホワイトライオンのような真っ白の髪を見て、今度は自分もこんな髪色にしてみよう、などと思う。バーテンと目が合う。

 ア、なにか飲まれますか。

 ミラーボールの光がよぎって、バーテンの目がきらりとなった。その男がオミだった。

 ユンはZIMAをひとつ注文する。昨晩年寄りからスってきた、くしゃくしゃの千円札を手わたす。汚い小銭が釣りでかえってくる。ユンはいらない、と言う。バーテンの男はだまって瓶ごと酒を出す。

 ねェ、アタマ、それだけマッシロにすんのに、どれくらいブリーチしなきゃダメなの。

 ユンはZIMAの栓を開けながら、バーテンに聞く。

 これですか? ヘアサロンでしてもらったんで、よくわからないですけど。

 ジブンでできる?

 どうですかね、でも髪、とても痛みますよ。

 イイよ、そんなの。

 ユンは瓶に口につけながら、バーテンの髪をじっと眺めた。なにか、とてもまぶしいものを見ているような気がした。ミラーボールの光がよぎって、バーテンの目がまたきらりとなった。カクテルをかき混ぜる男の伏し目は、あかるい三日月みたいに見えた。

 隣で女同士がキスしているのが目に入って、少年はバーテンに声をかける。

 ねェ、キスしてよ。

 バーテンは笑った。仕事中です、と彼は答えた。

 ダンスホールには色とりどりのレーザーが交差して、乱反射して、くねり踊るあまたの体に槍のように突き刺さる。ストロボで明滅する人の影。肩を揺らしてターンテーブルを回すDJ。遠い光景。隔離された熱気。ユンはEDMなんて、とっくの昔に聞き飽きていた。

 そうしてユンがぼんやりとホールを眺めていると、踊る人々の群れから、友人らしき影がいくつか抜けたことに気づいた。影はこちらに手を振って、女を数名連れてダンスフロアを出ていった。何だろう、と思った。ユンはカウンターを離れて、ZIMAを片手にあとを追う。

 友人たちは、クラブの奥まったところにある暗いルームへ入っていった。ユンもビーズのカーテンをくぐって中に入る。真っ赤な照明の下、革のソファーが並べられ、大きな黒豹の群れのように見えた。そこに座る人たちは、みんな泥のようにぐったりとなって、だらしない笑みを浮かべていた。部屋全体に、甘くえづくような刺激臭がただよっていた。ユンは小さく舌打ちをする。

 友人たちは先にソファーに腰かけ、煙草を回し飲みしていた。ユンがそばに立つと、当然のようにそれを回してよこしてくる。ユンはうながされるまま、とりあえず二口だけ吸う。けれども、いつもの綿のような浮遊感はちっとも来ない。頭の中ではさっきの白い髪がチラチラと光るばかりで、目の前のことがすべてつまらなく思えてくる。この煙草の味だって、もうとっくの昔に飽きていたんだと、今になって気づく。

 ユンは煙草を床にすてて、マーチンブーツの靴裏でぐちゃぐちゃにふみつぶしてしまった。友人たちの間から、ナニすんだバカヤロー、と怒号が飛ぶ。ユンはすすけた絨毯に唾を吐いて、そっけなく言いすてた。

 オレ、もうオマエらとつきあいやめる。

 友人たちは一瞬きょとんとした顔をする。そしてたがいの目を見あわせると、火がついたようにゲラゲラと笑いはじめた。口の端からヨダレをたらして、ひとりが言った。

 かってにしろ、おまえなんかいてもいなくてもおンなじだよ、バカヤロー。

 途端、そいつの頭にはユンのZIMAが振りおろされていた。友人のそばでマヌケた顔をしていた女が、猿のような悲鳴をあげた。赤い照明の下、見えない鮮血がパッと散って、ユンの頬に飛びちった。そのなまあたたかさに、ユンは余計に気を悪くした。

 すぐさま大乱闘になった。ユンは割れた酒瓶でさらに友人を殴りつけた。そこに別の友人のこぶしが飛んできて、ユンのこめかみにめりこむ。ユンはふらつきざまそいつを床に引きたおし、転がり取っ組みあいながら頭突きを食らわせようとした。するとまた別の友人に後ろから髪の毛を引っぱられて、わき腹に足蹴をくらう。

 騒ぎを聞きつけたクラブのスタッフが飛んできて、ユンの一同は外につまみ出された。友人たちは甘い煙草を吸って足元もおぼつかなかったとはいえ、数だけはユンひとりよりよっぽどまさっていたから、そのうちユンは袋叩きにされる。ユンは頭をかかえて、地面にうずくまる。父と暮らしていたころの記憶が、瞼の裏にちかちかとフラッシュする。 

 後頭部に友人の回し蹴りが決まったところで、ユンの意識は空白の向こうへすっ飛んでいった。



 ユンの気がついたのは、それから数時間後のことだった。肩をつかまれる感覚がして、ユンはギャアと悲鳴をあげた。まぶたが腫れて、うまく目を開けられなかった。かろうじて開いたわずかな視界に、街灯に照らされたあの白い髪が見えた。

 大丈夫ですか。

 その声が誰のものだか、ユンにはすぐにわかった。途端、ユンは大人に泣きつく子供のように、男の足にすがりついた。

 たすけてくれ! オレ、ころされる! オヤジにころされる……!

 その目の焦点は合っておらず、呂律もろくに回っていなかったが、少年が何か見えないものに不必要におびえていることは、バーテンにはすぐわかった。クラブの煙草を吸ったから、救急車は呼べなかった。ユンは仕事を終えて帰宅途中だったバーテンの男に支えられて、彼の暗いアパートに通されたのだった。



 ユンが再び意識を取り戻したのは、空気がまとわりつくように蒸し暑い、昼を回った頃だった。

 少年は毛玉だらけの小さなソファーの上に寝かされていた。シミの浮いたシーツが腰元までかけられている。

 隣のベッドに目をやる。この部屋の主であるバーテンの男は、まだ寝息を立てている。

 男の枕元には、空になった茶色い瓶が数本。ベッドの支柱のそばにも、数本の空き瓶が転がっている。ユンはかすむ目をこすって、瓶のラベルを確認する。どれにも、「せき止めシロップ」と書かれている。

 ユンは上半身を起こして、おそるおそる伸びをした。全身の骨がブリキになってしまったかのようにきしみ、肉が脈打つようにズキズキと痛む。慣れたことだから、あまり気にしない。ただ右の肩だけが、よじれたような感覚がしてうまく上がらなかった。ユンは腹立たしそうに唇をゆがめて、左の手で右肘をつかみ、無理やり自由にならない腕をあげようとした。

 ぼきっ。

 骨が嫌な音を立てた。一瞬ヒューズが飛んだように、ユンの頭は真っ白になった。しかし少年は声ひとつ上げなかった。乱れた息で、吹き出た顔の汗を必死にぬぐうだけ。

 自分の財布が枕元に置いてあるのに気づいて、一応確認をしてみたが、中身は昨日のままだった。そのそばには、吐瀉物まみれのユンの服が放られている。胸が悪くなるような、すっぱいにおいがする。一方の自分の体に目をやると、バーテンの男のものと思われるシャツを着せられている。こちらは湿った毛布のような、カビたにおいがする。

 無性に煙草が吸いたかった。

 ユンが煙草を探してごそごそと動く気配で、男が目を覚ました。少年が起きているのを見て、男は、

 具合はどう。

 とたずねる。ユンは小さくうなずく。

 きみ、さ、昨日ウチのクラブで乱闘さわぎ起こした子だよね。

 男は枕元をまさぐって、吸いさしのechoを見つけるとそれに火をつけながら言った。ユンは彼の問いに再びうなずく。ついでに、煙草くれない、と聞いてみる。男はまた枕元をまさぐって、今度は新しいechoをライターと共に投げてよこしてくれる。

 ああいうつまんないこと、他でやってよ、ホント。

 痛みでしびれきった右手は使い物にならなくなっていたので、少年は左手でライターの火を起こそうとする。しかし力が入らず、うまくフリントが回らない。

 ユンはバーテンのもとに這って行って、彼が吸っている煙草から火をもらおうとした。男はヒョイと顔をそむけてユンの煙草をよける。三日月の伏し目でにらまれて、少年はすこしだけ小さくなる。

 きみ、名前。なんていうの。

 男はじっとユンから目を離さずに言う。

 ユン、だけど。

 そう。僕は、オミっていう。

 名乗ったあとも、オミはユンをにらんだままでいる。ユンは上目でオミを見かえして、ぼつぼつと言った。

 わかったよ。オレ、もうおまえンとこでは、つまんないことしないよ。

 オミは納得したようにうなずいて、わしわしと少年の頭を掻き撫でた。ユンはコーラみたいな自身の茶髪が急にはずかしくなって、慌ててつけたすように言った。

 もうオレ、つまんないこともしないよ。

 オミは自分の煙草の先で、ユンのシガレットにそっとキスをしてくれた。

 ふたつのシガレットの間から灰かぽろぽろとこぼれ落ちて、布団に小さなこげを作った。 



 それから、ユンはオミと髪型を同じにした。オミが利用したヘアサロンには行かなかった。他人に髪をいじられて、さらに気に入らないスタイルにされようものなら、きっとユンはそのスタイリストを殴りとばしてしまう。

 ユンはオミのカラフルに色づいたバスタブの中で、オミに髪を切ってもらった。散髪してもらっている間、ユンはバスタブに染みついた色の数をかぞえていた。

 ブリーチ剤は三箱分用意した。全部、ユンがコンビニから万引きして調達してきた。しかし、一箱使っても、二箱使っても、ユンの髪は病人の肌のような白金にしかならなかった。ユンはその色を気に入らなかった。髪のはりついたバスタブを飛びだして、三箱目のブリーチ剤を部屋中にまきちらした。

 オミはそんなユンの首ねっこをつかんで一発殴ると、風呂場に放りもどした。オミに殴られると、ユンはおどろいたような顔をしておとなしくなる。オミは部屋のすみに積みあがったゴミの山から、使いさしのカラーバターを探した。

 ブルー、グリーン、イエロー、オレンジ、ピンク、グレー、バイオレット。いろいろな容器が山から発掘された。オミはその中のひとつを手にとった。

 ユンには、これがにあうよ。

 オミはほほ笑んで、淡いレモン色になったユンの髪に、真っ赤なカラーバターをべったりと塗りつけた。シャワーで流すと、ユンの髪は燃えるような真紅になった。

 ユンは排水溝に流れていく血滝のような水が、バスタブに赤く跡を残していくのを見ていた。バスタブがカラフルなのは、全部オミのカラーバターの跡なのだった。

 ユンは白い髪のオミに会えてよかった、と思った。新品の、ホーローのバスタブのような。

 切り落とした髪が排水溝に詰まって、そのうち、ユンの両足は赤い水にひたされる。



 オミのすすめで、ユンはいやいやながら病院にも行った。医者の言うことをハナから聞く気のないユンのかわりに、オミがユンの右腕の症状や治療法を聞いてやった。

 二の腕の骨が、ポッキリ折れています。

 医者は言った。それから、過去に手首も骨折していたようですが、病院に治療に来なかったようですね、とも。

 オミは目をまるくして、ユンにそのことをたずねた。ユンは座っているスツールを貧乏ゆすりでキコキコと鳴らすだけで、なにも答えなかった。

 きっと手首がうまく回らないはずです。医者は眉をひそめてオミに言う。すでに骨はくっついてしまっているので、今さらどうにもできませんが……。

 ユンの二の腕は、ギプスで固定されることになった。看護師が腕をつかもうとすると、少年はびくついて反射的に殴りかかろうとした。まるで殺気立った野良犬のようだった。オミはここでまたユンを殴りとばさなければならなかった。床にたたきつけられたユンにおどろいて声をあげた医者に、オミは言った。

 この子には、こうするしか伝わらないンです。

 切れた唇の端をぬぐって床から起きあがったユンは、オミの機嫌をうかがうようにして、シュンと小さくなっていた。

 ユンは保険証を持っていなかった。診察代は、全部オミが出してやった。

 病院を出ると、外はどしゃぶりの雨だった。オミは煙草に火をつける。すっかりくたびれて、血の気のない顔で放心しているユンにも、煙草を一本与えてやる。

 ユン。きみ、親はいないのか。

 ユンは宙を見つめたまま、ぽつりと答えた。

 オヤジならいるよ。でももういないかもしれない。ずっとあってないから。 

 きみ、学生だったんだな。財布に学生証、入ってたよ。

 オミは身をかがめると、自身のくすぶる煙草の先で、ユンのシガレットに火をつけてやった。

 ユンはおいしそうに煙を吸って、雨の向こうへ長く吐き出すと、ひとりごつように言う。

 でももういってないよ。ずっと。



 ユンは、友人と縁を切ったから泊まるところがないんだ、とさりげなく言った。オミは、ユンのギプスが取れるまでなら、と、少年の居候をゆるした。雨の降りやまない日のことだった。

 オミは毎晩バーテンの仕事に出かけ、明け方になると帰ってきた。ユンは昼すぎに目を覚ますと、フラフラと外を出歩いているようだったが、オミが帰る頃にはいつもきちんと部屋にもどっていた。オミがただいま、と声をかけると、ユンは視線を泳がせて、こまったようにがりがりと頭をかくのだった。少年はいつまでもうまく口にできないでいる。おかえり、オミ。おかえり、オミ。



 数か月後には、ユンはオミと病院に行って、右腕のギプスを取ってもらった。けれど、ユンは当たり前のようにオミの家へ帰って来た。オミも、いつまでたってもふたりぶんの食料を買ってきた。毎晩ふたりでカップ麺を食べて、オミは仕事に、ユンはどこかへ出かけていった。朝方になるとオミはベッドで寝て、ユンはソファーで丸まって寝た。それがふたりの日常になっていた。



 オミはいつも落ちるように眠りにつく。あまり眠らないユンは、うとうとしてくるまでの間、いつもオミの顔を眺めている。

 朝日がのぼって部屋が明るくなるにつれて、その目元の濃いクマと、そげた頬の青さが、道化の化粧のようにあざやかになってゆく様を、そして肌の白さがますます透きとおってゆく様を、少年はじっと見つめている。

 雪のような髪がパラパラとひたいにかかって、オミの弓張月の瞳を隠してしまう。男の口元は、いつも淡くほほえんでいるみたいに見える。長い指は、祈るかのよう、からまり重ねられていた。夜に魂をさらわれた、死人のようだった。

 ユンは時々いてもたってもいられなくなって、その頬に手を置いてみたくなるのだった。そうして触れた男の頬は、いつもちゃんと、あたたかかった。



 オミは昼すぎに目を覚ますと、煙草と一緒にせきどめシロップをひと瓶飲みほす。出勤前にもうひと瓶。帰宅してからまたひと瓶を口にする。部屋は茶色い小瓶であふれていて、シロップの、腐りかけたいちごに似た、ねばつくような甘いにおいで満ちている。

 オミが体調をくずして、仕事を休んだ日があった。オミは細長い体を丸くちぢこまらせて、汗ばむような熱帯夜だというのに、布団を首元まで引きあげて寒い寒いと言った。

 ユンはどうしたものかとオミの様子を観察していたが、声をかけても返事がないので、そのうち興味をなくしてソファーで漫画を読みはじめた。自身はああいう時、父に決まって丸二日クローゼットに閉じこめられたが、ここにはオミが入れるようなサイズのクローゼットはない。だからユンは何もしなかった。看病のカの字も、少年は知らなかった。

 オミのうめくような声がして、ユンは漫画から顔をあげる。どうもユンの名前を呼んでいるようである。

 オミのそばにゆくと、オミはシロップをくれ、とふるえながら少年に言う。

 ユンは冷蔵庫を開けたが、酒以外にはなにも入っていない。床に散らばった瓶を足先で転がしながら、栓を切っていないものがないか探したが、どれも中身はからっぽである。

 シロップ、ないよ。

 オミに伝えると、男は気落ちしたように、そうか、と言って、また布団にくるまった。ユンはふたたび漫画を開く。しかししばらくすると、またオミが狼のようにうなりはじめる。今度はグズグズと鼻水もすすっている。悪寒から来るふるえというより、発作を起こしたようにガタガタと体を揺らしている。そしてやはりユンの名前を呼んでいる。

 迷惑顔をしながらユンがふたたびそばに寄ってやると、オミはおそろしい勢いで少年をそのままベッドに引きずりこんだ。こわいこわいこわい……と、男は狂ったようにつぶやいて、ユンを何度も何度もかき抱いた。何かにおびえているようだった。蒸し暑い布団の中でもみくちゃにされて、ユンは窒息しそうになった。

 翌日の昼になって、ユンはせきどめシロップのためにおつかいに出た。ユンが買ってきたシロップを一気に三本飲みほしたところで、ようやくオミの目の焦点があい、ふるえもおさまってきた。

 ボクは、もうダメだ。

 オミはぐったりとした声で言った。

 シロップを飲まないと、だるくて動けない。みんなが自分を責めているような気がして、今どうしても死ななきゃって、そんな不安で頭がいっぱいになる。

 オミは急にぽろぽろと両目からしずくをこぼしはじめる。

 ユンはそれを見て、どうしようもなくバカらしい気持ちになる。こういう時、ユンはいつもところかまわず唾を吐くのだが、今日は何となくやめておいた。そんなことをすると、きっとオミは怒ってユンを殴る。ユンは殴られたくないと思ったのではなく、ただ、今日のオミに自分を殴らせるのはかわいそうだ、というような気がした。そしてこれからも、できればそうやって、オミに殴らせないようにした方がいいのかもしれない、とも考えた。

 ユンはオミの頭におそるおそる手をのばした。いつか自身がしてもらったよう、わしわしわし、と、男の白い髪をかきまぜてみた。汚れて脂ぎった髪が、すぐにユンの指にからみついて、何本もぬけた。

 ユンはおずおずとオミに煙草をすすめてみる。オミは深くうなだれたまま、シガレットを受けとらなかった。今度はユンは冷蔵庫から酒を出してきた。キャップをねじ切ってオミに突きだすが、オミはそれも受けとらなかった。ユンは仕方なく、その酒をちびちびと口にする。

 その時、少年の頭の中で豆電球がひらめいた。ユンは胸の奥がくすぐったくなって、同時にパッと熱がほとばしるように、体があたたかくなったのを感じた。

 ねェ、オミ。キスしてよ。

 ふいの言葉に、オミは少年の目を見かえした。その顔には、彼がどうしようもない時に浮かべるいつもの苦笑があった。オミはユンの白い傷が走るひたいに、そっとキスをしてやった。

 顔をあげたユンは、はじめて男にぎこちない笑みを見せた。真っ赤な毛をした、子犬のようだった。

 オミもあきらめたように、ユンの顔を見て笑った。



 暗い部屋。オミの横たわる影が、呼吸と共にひきつるように上下する。ユンはオミのベットに這っていって、そっと布団にもぐりこんだ。

 オレ、オミといっしょにチョウヘイ、いってやるよ。

 思いついたことを言ってみる。

 ユンはガキんちょだから、まだ行けないよ。

 オミは鼻をすすってぶっきらぼうに答えた。それきり、ふたりはだまってしまう。

 ユンは枕元にあったシロップの小瓶を手にして、飲み口についたままの、アルミキャップのリングをひねり取った。それを自分の指にあてて、クルクルと巻いてみる。キャップから切りとったあとの凹凸がちくちくとする。暗闇の中で、青いアルミがつややかに光る。ユンはいろいろな角度からそれを眺めて、満足そうに鼻を鳴らす。

 少年は床にころがったままの小瓶も拾って、またリングをひねり取った。今度はそれを、オミの指にも巻いてやった。

 オミは薄く目を開いて、なに? とたずねた。ユンはうまく言葉が出なくて、また鼻を鳴らした。オミは小さく鼻で笑った。

 ユン。今はまだ、そういうこと、できないんだよ。

 オミの薬指は、長くてつめたかった。



 ****



 短くなったシガレットの煙が目にしみて、ユンはハッと我にかえった。オミが玄関でジャケットを着る音がする。ユンは慌ててそちらに走っていった。オミが9:30出発のシャトルバスに乗ると言っていたことを思いだした。バス停までついていこうと思った。

 ユンのさわがしい足音に、オミがふりむく。その丸坊主になった姿を見た途端、ユンの足は止まってしまった。喉もとがキュッとなって、息ができなくなるのを感じた。少年は言葉をうしなって、玄関先で茫然と立ちすくんだ。あんなにまぶしかった髪は、もうどこにも見あたらなかった。

 この部屋、ずっと借りておくから。

 オミはしずかに言った。

 だから、好きに使ってくれて構わない。僕が帰るまでユンが待っていてくれると、うれしい。

 かえってくるの?

 ユンは喉奥から、かろうじてその言葉だけをしぼりだした。

 オミは苦笑してみせた。たぶんね、とだけ答えて、迷彩柄のボストンバッグを肩にかけた。

 じゃ、いってくる。

 扉が開いて、オミの背中が見えなくなって、ふたたび扉が閉まるまでを、ユンは夢でも見るかのように眺めていた。ずっと昔にも、にたような風景と遭遇した気がする。父と会わなくなった頃よりも昔。学校に通っていた頃よりも昔。まだ家に、父と自分以外の人間がいた頃。お前なんかいらない、と言って、あの人は扉の向こうに消えていった。待っても待っても、あの女性はずっと帰ってこなかった。

 ユンはお腹のあたりに、大きな穴がぽっかりあいてしまったように感じた。なにをしても埋まらないそれを、さっきまで忘れていたはずなのに、今そこにまた氷のような風が吹きすさんでいた。とても寒かった。

 ユンは部屋にころがったせきどめシロップの瓶を、かたっぱしから投げて割った。部屋中にガラスの破片が飛びちって、思い出の上にきらきらと降りそそいだ。シロップのにおいがいっせいに立ちのぼった。吐き気がするほど、甘ったるいにおいだった。

 傷だらけのマーチンブーツを履いて、ユンはひとり、オミの部屋を出ていった。




  了