さかしま劇場

つれづれグランギニョル

寺山修司が泣いている、美輪明宏版『毛皮のマリー』

 前回記事にした『ジャガーの眼』の観劇日と前後してしまいますが。

 4月16日、初台の新国立劇場毛皮のマリーを観てきました。

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 演出、美術、主演はかの美輪明宏さん。

 会場に到着すると、ロビーには美輪ファンと思われる小綺麗なおば様方が溢れ。付近には献花が山のように立ち並び、送り主の札を見ればどれも芸能界の重鎮に著名人ばかり。

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 美輪さんの華やかな芸歴を物語るかのごとき異質な空間に、席に座る前からちょっと僕は気圧され気味になってました。 

 

 

 

 

What's 『毛皮のマリー

  1960年代後半から1970年代半ばにかけて、小劇場運動を先導する一劇団であった「天井桟敷」。『毛皮のマリー』は、この劇団・天井桟敷の第3回目の公演に際して、寺山修司によって書き下ろされました。初演は1967年、アートシアター新宿文化にて。天井桟敷の旗揚げ公演『青森県のせむし男』と同様、『毛皮のマリー』は美輪さんが主演を務めることを想定して書かれた、いわば「当て書き」の脚本です。

 ということで、主人公である「マリー」は、初演当時から美輪明宏さん(当時の芸名は丸山明宏)が務めています。

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初演の様子(『寺山修司劇場美術館』より)

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初演のポスター(『ジャパンアヴァンギャルド』より)

 (☝どうでもイイですがこの初演ポスターにデカデカと美術「横尾忠則」、演出「東由多加」とありますが、両者とも途中で降板してしまっために結局は全部寺山ががんばったらしい)

 

 まさに美輪明宏に捧げられたとも言える『毛皮のマリー』は、初演以降も美輪さんを主演に据え、何度も再演が行われています。

 今回の2019年版は、美輪さんがマリー役を務めた天井桟敷以外での再演としては、1983年、1994年、1996年、2001年、2009年、2016年に次いで7回目となるのでしょうか。

 天井桟敷での初演を経験し、それだけ再演も重ねて来られた美輪さんだからこそできる演出があるはずだ! と思い。また舞踏家・麿赤児さんや、元・天井桟敷のメイン俳優であった若松武史さんの名演も一目見てみたく思い。(詳細不明ですが残念ながら若松さんは降板となり、深沢敦さんが代役を務められました。若松さんもお歳だしなァ、体調不良が原因かなァ)

 僕はこのたび観劇を決意したのでありました。チケット高かったよ……。

 

 

 

 

毛皮のマリー』あらすじ

 感想の前に、2019年版『毛皮のマリー』の簡単なあらすじをば。「2019年版」というのは、寺山が書いた脚本と若干内容が異なるからです。(後述)

 ちなみに2019年以外の再演ではどんなあらすじで公演されたのか存じ上げないので、また違った脚本が過去に存在したら、情報いただけると嬉しいです。

 

 主人公は40歳になる誇り高き男娼、毛皮のマリー(役:美輪明宏)。

 マリーは家賃をも滞納する身ながら、下男麿赤児)に身の回りの世話をさせ、優雅な暮らしをしています。

 彼には欣也(藤堂日向)という名の愛息子がおり、彼に自身のことを「お母さん」と呼ばせていました。欣也は日夜、マリーの手で部屋に放たれた蝶を追いかけています。欣也にとっては、マリーの部屋は広大な熱帯雨林であり、部屋の外の世界のことは何も知らないのでした。

 マリーがオペラに出かけている間に、部屋に紋白と名乗る美少女(深沢敦)が現れます。紋白は欣也を外の世界に連れ出そうとしますが、マリーの帰宅により逃亡は阻止されてしまいます。

 男娼のマリーに何故息子がいるのか? 物語が進むにつれて、マリーが欣也を育てることになった経緯が明かされます。もともと大衆食堂の息子であったマリーは、女装に目覚めて、店員のひとりである金城かつ子と魅力を争い合うようになりました。かつ子はマリーの美しさに嫉妬して、ある晩マリーを誘惑し、彼の男性としての本能を皆の笑いものにします。マリーはそれを恨み、金で男を雇ってかつ子を強姦させました。かつ子は妊娠して男の子を出産しますが、難産がたたり死んでしまいます。この時に生まれた男の子こそ、欣也なのでした。マリーは復讐のため、欣也を女の子として育てて肉の屑籠にしてしまうのだと言います。そんなマリーが明かした魂胆を、欣也は陰で耳にしてしまいました。

 絶望し暴れまわる欣也を、再び紋白が慰めに現れます。が、激情に駆られた欣也は彼女を殺し、夢遊病者のように部屋の外へと出てゆきます。

 部屋が荒らされていることに気が付いたマリー。彼女が欣也の名を呼ぶと、すぐに欣也は呪縛にかかったようにマリーの元へ戻ってきます。

  マリーは「お前は今にこの世で一番きれいになるのですよ」と欣也に化粧をほどこしてやり、ここでゆっくりと終わりの幕が降りていきます。

 

  マリーの歪んだ母性と復讐への執念。マリーから逃れられない囚われの犠牲者たる少年・欣也。

 生涯「家」「母」という呪縛を書き続けた寺山らしさが濃厚に滲むストーリーです。

 

 

 

 

2001年版とほぼ同じ、舞台美術

 『寺山修司劇場美術館』に2001年、及川光博さんが欣也役を務めた『毛皮のマリー』の写真が載っているのですが、今回2019年版の舞台美術もこれとほとんど同じものでした。


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 ☝初演では横尾忠則の作ったセットが舞台に入らないというハプニングが起き(それでセットを半分にして搬入しようとしたら横尾さんがキレて美術係を降板したとか)、美輪さんの部屋にあった棚や長椅子、屏風、肖像画、カーテンを使ったそうです。

 

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 ☝女相撲や白塗りの学生など寺山劇らしい脇役が見られます。及川さんの左手の下男1役が麿赤児さん、下男2役がマメ山田さん。

 

 『寺山修司劇場美術館』は私物として持っていて以上の写真はすでに見ていたので、舞台美術に関してはそんなに目新しさはありませんでした。

 

 

 

 

がんばってくれ美輪さん

 さて、そんな呪われた男娼・マリーを50年以上演じ続けてきた美輪さん。

 『毛皮のマリー』を舞台で見るのも初めてだったんですが、そもそも生で美輪さんを拝見すること自体僕は初めてだったので、その肉声たるや如何に……!と相当胸を膨らませて開幕を待つ僕。

 幕が上がり現れるのは、美輪さん演じる浴槽に浸かったマリー。彼女は手鏡に向かってうっとりと言います。

「鏡よ、鏡よ、鏡さん。この世で一番の美人は誰かしら?」

 エッ……ちょっ、待って……。

 何言ってんのか全然聞き取れんぞ……。

 マリーの台詞に、麿さん演じる下男は答えます。

「この世で一番の美人は、あなたです。」

 麿さんの台詞は重く冷たく、ハッキリと聞こえました。

 続くマリーの台詞。「ほんとに?」 

 イヤ、待って、やっぱり聞き取れん……。

 (上記の台詞はメモできなかったので、すべて私蔵の脚本から抜粋してます)

 謎の冷や汗をかいて、一瞬席が悪いのかと周りを見回しかけましたが、いやいやそんなハズはない。僕が座っているのは1階席、それもかなり前の方です。だってチケット取るのが遅かったせいでお値段がひとケタ違う席しか空いてなかったんです、そりゃその分イイ席座らせていただいてます。

 まァしばらく聞いているとだんだん聞き取れるようになってきたので結果オーライ(?)なんですが、何故聞き取れなかったのか後で悶々と考えまして、ウーン美輪さんの発声法というか喋り方の癖に免疫がなかったせいかなァ、と思ったり思わなかったり。

 Youtubeなどで美輪さんが出演してる自己啓発動画(?)みたいなのを見ればすぐに分かると思うんですが、美輪さんはもともとハッキリとした話し方をされる方ではないし、かつ歌の節のような、トーンに強弱をつけた発声をされがち。

 それはそれで美輪さんの個性で素敵なんですが、舞台の上でもまんまその喋り方で台詞を言ってる感が否めない。「発声」ではなく「喋り」になってるというか。

 美輪さんは事前のインタビューで、声の力について強く言及されていたので、きっと台詞の発声に関して強い意識はおありだとは思うんですが、お歳もあるのかなァ、声自体がそもそも小さくて、それも聞き取りづらさの一因になっていました。

 

 別の稽古場公開のインタビュー記事の中では、「 “台詞は歌え、歌は語れ”というようにしています」とも述べられてますが、シャンソンの延長で付けられたかのような抑揚が過剰に感じてしまって、ちょっと慣れるのに時間がかかりました。

 別に観客に優しい芝居が好きなワケではないので、不満だったのではなく、冒頭だけちょっと困惑してましたって話なんですが。

 

 美少年・欣也役の藤堂日向さんは、美輪さん曰く「えくぼのできる可愛い感じの子」。上記記事参照)はじめてお名前を拝見する役者さんでした。

 終始純朴な少年らしい声音で喋っていますが、マリーがあまりに子ども扱いするのに対し「ぼくは、もう十八歳になるんですよ、マリーさん。」と怒るシーンでは突如野太い声に一転。そちらの方が断然声が通っていたので、地声で通す役も今度観てみたいな、と思いました。

 気になった点といえば、肩がずっと上がりっぱなしで、余分に力んでるかなァと感じたとこ。肩部分にパフの入ったような衣装だったので、そう見えただけかもしれない。

 

 下男役の麿赤児さんは、存在感あってむちゃくちゃ格好良かったです。麿さんは1994年、2001年、2009年の『毛皮のマリー』再演でも、下男役を務めてらっしゃいます。

 劇中、下男が「醜女(しこめ)のマリー」に変身して踊り始めるシーンがあります。ここで麿さんの舞踏家としての側面を堪能できる。けれど脇役で共に踊るダンサーたちが拙くて、麿さんの舞踏が茶化されてしまっていたのが少し残念でした。けれど初演時は、このバックダンサーたちはゲイバーのママたちの集団だったそうなので、別にそもそも上手く踊る必要もなかったのかもしれない。

 若松武史さんの代役として美少女・紋白役を務めた深沢淳さん。若干走り気味な感じもなきにしもあらずでしたが、コミカルでキュートでした。

 

 メインにこれだけの実力派俳優が集まりながら、何となく白けたまま観終わってしまった、というのも正直なところでした。

 個人的な考えですが、演劇の出来の殆どは「間(ま)」の甲乙にかかっているんじゃないかなァ、と近頃思っていて。

 美輪さんも藤堂さんも麿さんも深沢さんも、個々の演技自体は見るに値するものだったんですが、台詞や仕草の掛け合いのテンポの拙さが目についてしまって、イマイチ最後まで入り込めませんでした。

 美輪さんは「歌手」としては素晴らしいけれど、きっと「演出家」ではないなァ……とものすごい僭越ながら思ってしまった。がんばって、美輪さん。

 

 

 

 

ラストに関する疑問

 あらすじの項目で述べた、「2019年版が寺山が書いた脚本と若干内容が異なる」についての話です。

 細かい箇所は置いておいて、大きな改変があるのはラストシーン。

 以下に最後の締めとなるマリーの台詞を、ト書きも一緒に引用しておきます。

 

マリー:

さあ、坊や、町でとってもいいお土産を買ってきてあげました。

(とカツラをとり出して)これからおまえはとってもきれいな女の子になるんですよ。(と美少年の頭にのせる)

ほうら、よく似合う、あたしの思ったのとそっくりだ。(と口紅をとり出す)(ゆっくりとテーマがながれこんでくる)

さ、顔をあげて、お母さんの顔をよく見て(と言いながら、ゆっくりと化粧してやりはじめる。しだいに、美少年が美少女に変ってゆく……)

どうして泣いたりなんかするの?坊や、おまえは今にこの世でいちばんきれいになるんですよ

 

――寺山修司(1993)『戯曲 毛皮のマリー』角川文庫、pp.165-166

 

 寺山の原作では、このまま幕切れとなります。

 それが、2019年版ではこのあとに、マリーが突如思い直したかのように「おお、お前にこんなことをするなんて、母さんが悪かったよ、許しておくれ」と謝罪を始め、「私が今後どうなっても、この子の未来には幸福がありますように……南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏……」と、息子の将来を仏に願うシーンが追加されています。

 『寺山修司劇場美術館』に、2001年の『毛皮のマリー』公演パンフレットに載せられていたらしい美輪さんのインタビュー文がそのまま転載されているんですが*1、そこで「最後にモノローグを付け足している」との記述があるので、この改変は2001年の時点ですでに成立していたのかもしれません。

 が、このエンドは納得できないぞ美輪さん!

 そのインタビュー文の中では、美輪さんは「私の出すアイデアには寺山修司はいつももろ手を挙げてオーケーだった。だからこの追加のモノローグに関しても、寺山は何も言わないと思う」とも仰っていますが、例え寺山修司は天国でオーケー出してても僕は納得できないぞ美輪さん!

 欣也はかつてマリーを辱めた女・かつ子が生んだ子供です。その子を「セックスの汚物を捨てる肉の屑籠にしてしまう」のがマリーの復讐でした。しかしマリーが過剰なまでに欣也の世話を焼きついには女装までさせるのは、まるで可愛さ余って子を束縛し、子の中に自身の理想を投影してしまうような、どろどろに煮詰まった愛情に盲目的になった親の姿にも見えます。本作の魅力は、そんな男娼マリーの歪んだ母性愛にこそある、というのが個人的見解です。なので最後のシーンで、マリーが我が身を顧みず子の幸せを願うような「ただの小綺麗な母性」の塊と化してしまっては、せっかくそれまでのストーリーにより最高潮に達していた狂気的な母性愛の退廃的なにおい、寺山らしい妖しく不敵な香りを一蹴することになってしまうのでは? と感じました。

 自己愛にも似た歪んだ母性が献身的な滅私の母性に純化していくような物語自体を否定しているワケではありません。けれどあのラストシーンによって、『毛皮のマリー』はただの美輪さんの「愛についてのお説教」になってしまったと感じました。寺山の『毛皮のマリー』は、そんな親子愛に綺麗な説法を垂れる話ではないはずです。愛にも狂気にもなりうる「母性」や、男でも女でもある「おかま」に見るアンビバレンスが、男娼の密事や、男娼が美少年を育てるといった背徳の光景の中に危うく激しくぐらついている。それが毛皮のマリー』という作品の持つ美しさだと、僕個人は思っています。それがすっかり消臭されてしまって、あ、ああぁぁ~~~~……。(頭を抱える)(異論は認める)

 

 

 

 

まとめ

 ということで、美輪さんのカリスマ性で集客は結構な様子でしたが、個人的には舞台の出来と内容は絶賛しきれなかった、2019年版『毛皮のマリー』でした。

 謎エンドの追加されてないもっと寺山くさい(?)『毛皮のマリー』が観たいなァと思いつつ、でも美輪さんが演じてこその「マリー」だとも思いつつ。ちょっと複雑な気持ち。

 けれど初演の時から『毛皮のマリー』に参加してこられた美輪さんだからこそできた演出もきっとあるはずで、それがどういう点なのかは他の『毛皮のマリー』公演を観ていないので分かりませんが、今回足を運んだ価値はきっとあるんだろう。多分。

 美輪さんももう80半ば。今後『毛皮のマリー』の再演がふたたび行われるかは分かりませんが、生前の寺山を知るひとりとしてこれからもがんばってほしいなァと思います。でもオリジナルエンドを付け足すのはやめてね!

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1983年制作発表での寺山と美輪さんの写真

 

毛皮のマリー―戯曲 (角川文庫)

毛皮のマリー―戯曲 (角川文庫)

 
寺山修司劇場美術館

寺山修司劇場美術館

 
ジャパン・アヴァンギャルド  -アングラ演劇傑作ポスター100-

ジャパン・アヴァンギャルド -アングラ演劇傑作ポスター100-

 

*1:笹目浩之ほか(2013)『寺山修司劇場美術館』PARCO出版、pp.140-148