さかしま劇場

つれづれグランギニョル

すべてのやるせなさに贈る、モダンスイマーズ『ビューティフルワールド』

 

 観劇日からもう1か月も経ってしまいました。

 6月16日(日)、東京芸術劇場シアターイーストへ、モダンスイマーズの結成20周年記念公演『ビューティフルワールド』を観に行ってました。

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  感想を書こう書こうと思いながら、なかなか筆が(タイプと言うべきか)進まなかったのは、面白くて下手に言語化できなかったというのもあるのですが、このお芝居が僕の胸の痛いところに刺さりすぎて、書くことで自身の傷をえぐり返すような感覚に陥ってしまう、というのが一番大きかったように思います。

 さすがに観劇から一か月を経て、大量出血だった胸の傷にも分厚いかさぶたができてきた頃なので、自身の備忘録としてきちんと感想を書いておこうとようやく筆を執った(PCを立ち上げたと言うべきか)次第です。

 

 

 

 

What’s モダンスイマーズ

 

 今回知り合いに勧められての観劇だったので、僕は観に行くまでモダンスイマーズという劇団を全く知らなかったのですが、公演名にも書いてある通り今年で結成20周年だそうで。公式サイトのプロフィールによると、

舞台芸術学院での同期である西條義将(主宰)と蓬莱竜太(作・演出)の出会いによって発足。劇団メンバーは、同学院の古山憲太郎、津村知与支、小椋毅と生越千晴(新人)の6名で構成されている。人が生きていく中で避けることのできない機微、宿命、時代性を作家の蓬莱竜太が描いていく。作品ごとに全く違うカラーを提示しながらも多くの人々を惹き付けるドラマ性の高さには定評がある。丁寧に創りあげる演技空間は体温を感じさせ、機を衒わない作品はいつも普遍の力を宿している。最近稀になってきた“劇団力”も評価され、その結束力も魅力の一つである。

 との概要。

 劇団としては文化庁芸術祭優秀賞、脚本では岸田國士戯曲賞鶴屋南北戯曲賞なども受賞しており、20年間コツコツ積み上げてきた実力のある劇団なのかなァという印象。

 当日会場では、日曜日だったせいもあるとは思うのですが、客席が足りず通路席までできていました。公式サイトを見ると、全公演完売で、追加公演までされたそうですね。その人気っぷりが伺えます。

 

 

 

 

『ビューティフルワールド』あらすじ

 

 主人公は40代にもなって実家に引きこもっているナツヒコ(役:津村知与支)。実家が火事に見舞われてしまった彼は、社会人をしている古山憲太郎)の勧めで、叔父(菅原大吉)の家に居候をすることになりました。

 叔父の家はカフェを営んでおり、ナツヒコは離れに居候させてもらう代わりに、カフェの手伝いをやらされます。しかし従業員に小言を言われるなど肩身が狭く、頼まれた買い出しを失敗するという事件も重なって、彼はまた引きこもってしまいます。

 そんな彼に親身になってくれる、叔父の妻・キヌコ(吉岡あきこ)。キヌコは和菓子屋の娘だったのですが、そこに婿入りしてきた叔父に和菓子屋を潰され、渋々カフェの経営に転向したという過去がありました。威圧的な夫や年頃の娘・ミク(生越千晴)、店員たちの緩衝材としていつも陽気に振る舞うキヌコは、その鬱憤をナツヒコにしか明かせません。こうしてナツヒコとキヌコは交流を深めていきます。

 ストーリーが進むにつれて、ナツヒコに一番攻撃的だったサワダ(小椋毅)や、ミステリアスでつかみどころのなかったシミズ(成田亜佑美)、家庭のあるタカクラ(西條義将)といった店員や、頑固でわがままな叔父たちの抱える過去や胸の内も知っていきます。その時ナツヒコは、いつの間にか皆と気兼ねなく話せるように変化している自分に気が付くのでした。

 しかしようやく皆が一丸となりかけた矢先、ナツヒコとキヌコの間に肉体関係があったことが発覚します。叔父はその不倫事件に激怒しますが、さらに従業員のサワダが好きだったシミズは妻帯者であるタカクラを好いており、そのタカクラは年のかけ離れたカフェ屋の娘・ミクと交際していたというトンデモな泥沼まで発覚。取っ組み合いの大喧嘩に発展してしまいます。そのドタバタをあんぐりと眺めるしかないナツヒコは叫びます。

 「自分が見ていたものと全然違う!何だこの高揚感は!自分もこの中に入りたい、叫びたい!」

 暗転ののち、ナツヒコは包丁を振り回してまで阻止しようとするキヌコを振り払って、カフェを出ていきます。迎えに来た弟は、嫁が妊娠したと、しかし今のこの世の中に生まれてくる子供も大変だな、と電車の中でナツヒコに語ります。ナツヒコは言います、「きっと気に入るさ」。「何が?」と聞き返す弟に、ナツヒコは静かな声で答えます。「セカイ」。

 ここで幕切れです。

 

 

 

 

散りばめられた小ネタのユーモア

 

 引きこもりや関白亭主のDVなど重い題材を扱いつつも、各所に明るい笑いを入れることも忘れず、脚本散りばめられた小ネタはユーモアにあふれていて非常に好印象でした。

 例えば叔父の妻・キヌコは宇多田ヒカルが大好きで、夫に怒鳴り散らされたりすると、いつも宇多田ヒカルの歌を口ずさみます。時に無意識に歌声が大きくなって娘のミクに怒られたりするのですが、こうして強いて歌に没頭しようとする姿は、心理的な傷を負った時内的世界に入り込む自己防衛行為の一種に見えます。劇中のBGMには宇多田ヒカルの「人魚」が流れたりして、これがまた観ている方の感傷を誘うのですが、公演タイトルの「ビューティフルワールド」というのは宇多田ヒカルの楽曲「Beautiful World」と掛けているのでしょうかね。この「Beautiful World」、ヱヴァンゲリオン新劇場版:序のテーマソングなのですが、劇中にもナツヒコとキヌコがエヴァを一緒に鑑賞するシーンがあります(ただこれは劇場版ではなくアニメ版を見ているっぽい?)

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 またナツヒコは40代にしていまだ童貞だったのですが、キヌコとの初夜を経た場面で、「ナツヒコはレベルがあがった!」と独白します。♪テレレレッテッテレードラゴンクエストのレベルアップ音とともに、背景にもレベルアップのドット文字が映し出され。叔父を大魔王呼ばわりしたり、ナツヒコにつらく当たるカフェ店員・サワダをモンスター、サワコの娘・ミクを姫と呼んだり、そうしたゲーム的な表現が面白かったです。引きこもってゲームばかりしているナツヒコらしい表現でもあり、また異世界RPG的な世界観や設定が流行っている今日のサブカルチャー界隈を思わせる今ドキ感もありました。よく見るとちゃんとチラシもゲームボーイ風にデザインされていますね。芸が細かい!

 

 

 

 

「どうしようもないやるせなさ」

 

 で、いよいよ本題と言いますか、僕が言語化に苦しんだ部分を苦しみながら書いていくのですが。一体このお芝居の何がそんなに良かったのか、結論から言うと、

  1. 夢を失い現実にくたびれた人間の哀愁や、いまだに夢を忘れられない姿
  2. 引きこもりの息詰まり感、肩身の狭さ
  3. 男女が愛し合い続ける難しさ

 この3つに集約されると思います。

 

1. 夢を失い現実にくたびれた人間の哀愁や、いまだに夢を忘れられない姿

 まずひとつめについてですが、誰しもが多かれ少なかれ夢や理想を持っていて、もちろんそれを叶える人もいる一方、現実との軋轢の中でそれを諦めていく人もいるワケです。本作はその後者にあたる人たちの物語なんですが、例えばナツヒコに威圧的だったカフェ店員・サワダは「役者を志して上京したが芽が出ず、田舎にも帰れない」と、叶わなかった夢の前にいまだ立ち尽くしていることを語ります。ミステリアスでつかみどころのなかった女性店員・シミズは、「専業主婦になるか自分の店を持つか、夢を見ていたこともあったなァ」と、自分の甘さと殺風景な現実の狭間で寂しげな面持ちです。家庭のある店員・タカクラは、「現実から逃げ出したいとよく思う。だからこそ、引きこもりのナツヒコくんが時に妬ましい」と話します(彼が現実から逃げたいのは家庭を持っている責任から…と思わせてカフェ店員と泥沼不倫しているせいだというのが物語後半で暴露されるワケですが)。妻であるキヌコに乱暴的な叔父も、彼女の実家であった和菓子屋を潰してしまったという負い目や、カフェの経営に悩んで疲弊し、今の飲んだくれの関白亭主になってしまった様子です。一同が大乱闘になった時にナツヒコが発する「自分が見ていたものと全然違う!何だこの高揚感は!自分もこの中に入りたい、叫びたい!」という台詞がありますが、これのまずひとつの意味は、引きこもりのナツヒコに対して自立した社会人のように見えた皆も、その内心では、将来へ明るい一歩を踏み出せず逡巡、懊悩している点で同じであると分かった、ということなのでした。「みんな同じ!みんな悩んでる!」と言えばそれまでかもしれませんが、そう気が付いたところで霧散するやるせなさではないワケで。

 僕自身、東京に引っ越してから早くも3年目になったのですが、別段何かが叶ったわけでもなく、茫漠たる未来に時に暗い気持ちになりがちです。そろそろ甘い夢を見ている場合でもなく、けれど道半ばで諦める気にもなれず、目を背けようとしても現実はますますリアルに迫るだけ。登場人物皆の気持ちがとても肉薄して感ぜられて、観ている間ずっと胸がキリキリと痛んでいました。

 

2. 引きこもりの息詰まり感、肩身の狭さ

 ふたつめの、ナツヒコの肩身の狭い、息詰まるような日々の描写に感情移入してしまったというのは、僕も似たような経験をしたためでした。ナツヒコには、もともと会社務めをしていたのがストレスが重なるにつれて出勤できなくなってゆき、気が付けば何年も引きこもるようになってしまっていた、という背景があります。この、決定打となったきっかけがあったワケではないけれど、徐々にドロップアウトしてしまったというナツヒコの姿を、大学生の後半期からだんだん家から出られなくなり、最低限の授業に出席する以外ずっと家にこもるようになった自分に重ね合わせて見ていました。かろうじて授業には出ていたという点で、まァ僕は完全な引きこもりではなかったのですが、4回生になる頃には周りは就職活動だの卒論だので大忙しをしているワケで。そんな中でアルバイトも辞めてしまい、何ひとつ手を付けられず、ただ実家の布団の上で目だけ開けている日々、たまに起き上がってもやれることと言えばネットゲームくらい。そんな毎日は、自責の念と焦燥感にゆっくり首を絞められていくような息苦しさで満ちていました。奇跡的に大学を卒業できた後、結局まったくもって就職活動ができなかった僕は、親や兄弟の目がいたたまれず東京の知人宅へ逃げ込んだのですが、そこで何かが変わるワケでもなく、さらに半年間、知人の家にこもり続けていました。

 引きこもりによる弊害は多々ありますが、引きこもっている本人のことでいえば、自己肯定感が著しく低下することがひとつ挙げられると思っています。すると相対的に、他人は皆完璧だなんて信じてはいないんだけれど、「他人はもっと良くデキた人間に違いない」とどこかで思い込んでしまいます(まァ社会との接触を維持できているという点で言えば超絶デキてるんですが)。そして挙句の果てには、そんな「デキた他人」から評価されたくなくて、何を言われるのかが恐ろしくて、他者と上手くコミュニケーションが取れなくなってしまう。ナツヒコが物語前半で、他人から掛けられた言葉に「ええ」「まあ」と曖昧な答え方しかしないのは、別にコミュ障だからじゃないんです。自分からむやみに語ることで、他人から否定される隙を作りたくないんです。引きこもっている自分に語れるようなことなんて何ひとつないし、そもそも語る資格すら持っていないし、という心情です。だから、ナツヒコの「自分が見ていたものと全然違う!何だこの高揚感は!自分もこの中に入りたい、叫びたい!」という終盤の台詞は、僕の胸を強く打ちました。この台詞でナツヒコは、自己肯定感の低さのせいで、必然的に、相対的にまぶしくなってしまっていた他者という存在が、自分と等身大の人間として見えるようになった、と言っているんです。自己否定の呪縛から解き放たれ、また他者への歪んだ認知がクリアになる。それで彼は、「自分と同じ人たち」の中に自分も入って、同じように叫びたい、と思えるようになりました。

 僕も引きこもりだった頃の自己肯定感の低さや自己否定の呪縛を引きずりに引きずり、今なおナツヒコの境地に辿り着けていない感もしていますが、いつか彼のような気持ちになれる日が来るんだろうか、と、舞台を憧憬のまなざしで見ていました。

 

3. 男女が愛し合い続ける難しさ

 みっつめに良かったのは、理想に始まり、夢を見合い、些細なすれ違いを繰り返し、気が付けばすっかり冷めた現実を突きつけられる、そんな愛の困難さの描写でした。例えば威圧的な叔父に、それまで黙って耐えていたキヌコがついに爆発して自分勝手に行動するようになり、今度は叔父が委縮していく、という関係性の逆転劇が本作では描かれてゆきます。すでに中年という歳になり愛が冷めきったように見える彼らも、結婚当初は互いを思い合う仲でした。かつて自転車をふたり乗りしながら、キヌコの実家である和菓子屋を一緒に盛り上げていこう、お腹にできた子供(娘のミク)のためにがんばろう、と笑い合っていたのでした。それが、和菓子屋の経営が立ち行かなくなり、叔父はカフェの営業に転向することを決断します。しかし彼の中で和菓子屋を潰してしまったという罪悪感は消えず、またカフェの営業もいつまでも青息吐息で、やがて酒を飲んでは妻のキヌコに当たるようになっていったのでした。妻のキヌコも、夫や家庭、カフェを支えようと明るく気丈に振る舞っていますが、和菓子屋を潰された悲しみは癒えず、夫の乱暴にもはや我慢の限界です。キヌコがナツヒコに夫の愚痴をこぼした時の言葉が刺さります。

私の方がそっち(夫)を好きなのが(夫は)当たり前だと思ってる

上からだなァって。下に見られてる

 つまり、叔父はキヌコのことを、何をされても黙って受け入れてくれる下僕みたいなもののようにと思っている、と。夫の妻への過信、わがまま。そして妻の夫への忍耐、服従。僕たちの親の世代くらいまではわりと普遍的に見られた構図かな、と思います。ちょうど今50代、60代になっている世代です。また個人的な話になりますが、僕が水商売をしていた頃、浮気をしていることや、女遊びが派手なことを、自慢げに語る男性が多くいました。けれどどの男性も、自分の妻が浮気しているかもしれない、なんて想像はまったく脳裏にない様子でした。別に倫理や善悪の話をしたいワケではなく、これが夫の妻への過信ってやつなのかなァ、と当時から何となく感じていたのですが、それを今回のお芝居で再び見せつけられた心地でした。

 叔父とキヌコのすれ違い、いがみ合いは、誠意を込めて謝罪をし合えば解消するようにも見えます。けれど長い年月の間に少しずつ少しずつ積み重なった不満が分かり合う気力を削いでいき、そのうち相手に語りかける前に「言っても無駄だ」と諦めてしまうようになる。叔父とキヌコの関係は、その相互理解の諦めの、なれの果てなのでした。要因は何であれ、相手を受け止め分かろうとする努力を怠ってしまうことは自身にもよくあることで、この中年夫婦の描写を見ていて非常に、非常に胸が痛かったです……!

  夫に不満を募らせたキヌコは、一方でナツヒコと親密になっていきます。家庭内の緩衝材としてすり切れているキヌコと、引きこもりで寄る辺ないナツヒコは、互いを唯一の味方として距離を縮めていきます。けれどナツヒコが周囲の人間と気兼ねなく話せるように変化していった頃から、ナツヒコはキヌコを疎ましく思うようになっていきました。そっけない態度をとるナツヒコに、ついに耐えきれなくなったキヌコは泣きながら言います。「貴方も、夫みたいになってる!」。このふたりは、自身の心の隙間を埋め合うことで惹かれていったワケですが、ナツヒコの心の隙間――つまり孤独感や自己肯定感が他者によって埋められていったことで、もはやナツヒコにとってキヌコは必要のないものとなってしまいました。愛は決して、お互いの欠乏を埋め合うためだけのものではない、ということを、この構図は観客にまざまざと見せつけています。飢えの充足を求め合う関係、それはきっと、ただの依存と呼ぶのですね。ウッ、胸が痛い……!

 

 以上3点どれもが、「どうしようもないやるせなさ」に満ちていて、心の奥のあたりをギューッと締め付けられるようでした。いや、その気になれば、どうにかできるかもしれないんです。夢はガムシャラにやれば叶うかもしれない。引きこもりだって、きっかけさえ作れれば立ち直れるかもしれない。男女も、きちんと会話をすればまた愛し合えるようになるかもしれない。けれど、そのどうにかする気力も、勇気も、もう潰えてしまった。そんなやるせなさが、どの登場人物からもにじみ出ていました。

 

 

 

 

このろくでもない、素晴らしき世界

 

 一応大切なことなので補足しておくと、この芝居はそんな夢も希望もないまま終幕するワケではありません。わずかな一筋の光が、各々に用意してあります。その一番が、ナツヒコの変化です。自分を否定している、自分とは違うと思い込んでいた人たちが、皆愛すべきどうしようもない人間でしかなかったこと。それに気が付いた時、ナツヒコにとっての世界もまた、大きく変わって見えたのでした。そして彼は、これから生まれ来る弟の子供も、きっとこの世界を気に入るよ、と最後に締めくくります。

 これは、叔父の家で紆余曲折ながらも自己肯定感を獲得したナツヒコが、他者を愛せるようになり、より漠然とした全をも愛せるようになった、とも取れますが、単純に自身の視点の変化によって、世界が変わって見えた、と考えて良い気がします。ちょうど前回少女革命ウテナの観劇感想を書きましたが、あの作中で登場する有名な台詞「世界を革命する力を!」の真の意味とは、本当に世界を転覆してしまうのではなくて、自己の殻を破り価値観を刷新することだ、とよく言われています岡田斗司夫の受け売りですすいません)。ちょうどエヴァンゲリオンのアニメ版でも、世界なんて自分が思い込んでいる姿をとっているにすぎず、望めばどんな世界もありえる、と主人公のシンジが気が付くところで物語が終わりますね(賛否両論ありますが僕はこのラスト好きです)。劇中でナツヒコがエヴァンゲリオンの話題に触れていると先述しましたが、そういう意味ではナツヒコはシンジの境地に辿り着いたのかもしれません。

 

 ということで傷をえぐりながらも長々と書き連ねてしまいましたが、モダンスイマーズ、かなり、というか最高に良かったです。僕たちはどうしたって生きていかなければならないけれど、僕たちが望む限り、ここに広がる世界はいつだって、きっと、ずっと美しい。そんなことを語りかけてくれたお芝居でした。

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