さかしま劇場

つれづれグランギニョル

バラナシに死す

 11月から12月にかけて、インドを旅していた。西海岸のムンバイから入国して、アウランガーバード、ニューデリー、アーグラー、バラナシを経て、東海岸コルカタまで。インド半島を横断すること3週間と少し。その中でも一番長い間滞在したのはバラナシで、1週間もの間ここで過ごしていた。旅程の3分の1をバラナシに費やしたことになる。そんなにかけて一体何をしていたのかというと、まったくもって何もしていない。ただ毎日ガンジス河沿いを散歩して、ボーッとして、日没の礼拝儀式を見たり遺体が燃え尽きるのを眺めたりして、何となく過ごしていた。

 

 

バラナシに憧ればかりつのらせていた

 バラナシを知らない人に軽く説明しておくと、このバラナシという街はインドの一大宗教であるヒンドゥー教の聖地だ。ガンジス河が流れていて、ガートと呼ばれる階段が河沿いにずらりと広がっていて、そこで沐浴する人がいたり、洗濯している人がいたり、牛が寝そべっていたり、遺体が燃やされていたりする。日本人がインドの風景を想像した時に思い浮かべるのは、大抵こうしたバラナシの光景なんじゃないだろうか。外国人が日本の風景を想像する時、京都の寺社仏閣や舞妓を想像しがちなのと同じような。

 ちなみにブッダが悟りを開いて初めて説法を行ったのも、このバラナシだ(正確に言うとバラナシ県のサールナート市。僕がいたのはバラナシ県バラナシ市)。実はバラナシは、我々日本人と馴染みの深い仏教の聖地でもある。

 

 

 何故バラナシに訪れたかというと、インドに古くから根付くヒンドゥーの宗教観を体感してみたかったからだった。もともと自分は世界の神話や宗教学、民間信仰なんかを学ぶのが好きなのだけど、それ以上にヒンドゥー教の神々は日本の仏教にも多く取り入れられていることから、我々日本人にも馴染み深い。例えば今年2019年のNHK大河ドラマは「いだてん」だったけど、この韋駄天という名前の神様はスカンダという軍神様が元ネタだし、七福神の紅一点・弁財天はサラスヴァティーという女神様が元ネタだ。日本名で「~天」という名前がついていたら大体インド由来の神様なのだ。

 それに仏教なんてヒンドゥー教(正確にはその元となったバラモン教への反発から生まれたようなものなので、そうした仏教の源泉であるヒンドゥー教ってどんなモンかな、じゃあその宗教色が濃い場所に行ってみっかな、という経緯があった。

 また、宗教を見るということは、すなわちそれを信奉する人々の死生観にも触れるということだ。ガンジス河のほとりで、インドの人々の生と死を見つめたいという気持ちもあった。

 ちなみに「ガンジス」とは英語の呼称なので、インドへの敬意をこめてここでは以下よりヒンディー語およびサンスクリット語の呼称である「ガンガー」と記載します。

f:id:gothiccrown:20191219064639j:plain

ガンガーで検索するとアストロガンガーが出てくるけどこれではない。

 

 

 ガンガーのほとりにて

 バラナシではふたつの宿に泊まって、後半は伝説の日本人ゲストハウス「久美子の家」に寄ったりもしたのだけど、ガンガーの沿岸に建っているものだから、部屋からの眺めは最高だった。ここでの詳しい思い出はまた別の記事に分けて書こうと思うが、蚊に噛まれた痒さで早朝に目覚めたりして、ふと窓の外に目をやった折には、河の向こうからのぼってくる朝陽が見えたりした。日本語でなら「東雲(しののめ)」なんて言うんだろう、空には藤色の雲がたなびいて、河面に映る緋色の陽光がまっすぐこちらへ腕を伸ばしている。何だかこの地から世界が始まったような気分だった。「日出ずる国」なんて全然関係ない言葉をつぶやきそうになった。

 

 でもまァ窓からガンガーを見下ろしてばかりいても退屈なので、毎日河沿いを目的もなく散歩しては、何をするでもなくガートに腰かけてぼんやりしていた。多分そこらを歩いていた牛よりダラダラしていたと思う。

 河の流れを見ていると、これまでの旅の記憶が次々と浮かんできた。インドの思い出はどれも、絶え間ないクラクション音と、赤ん坊の悲鳴と、吠え交わす野犬の鳴き声なんかでまみれているのだけど、ガンガーの静かな波打ち音を聞いていると、そうした騒々しい記憶がよみがえってジーンと耳鳴りがするのだった。

 音だけではない。インドでは何もかもが激しいパトスを放っていて、油断するとその熱量に気圧されてしまいそうな気分にたびたび陥った。実際、バラナシを離れる直前、僕は発熱して寝込むことになるのだが、あれは風邪をこじらせたというよりもインドの熱にあてられた、といった方が近かった。旅の過程で全身に浴びてきた熱量が、臨界点を超えて爆発してしまったみたいだった。僕がガンガーを眺めている時、それはまだぎりぎり飽和していないパトスが体内でくすぶって、噴火直前の溶岩のように出口を求めているような時だった。

 

 僕はそんな熱を冷ますような心持ちでガンガーを眺めていたのだけど、それによって何か感慨が湧き起こったワケでもなく、ただ「汚ねえな~」なんて思っていた。事実、ガンガーはむちゃくちゃ汚い河で、世界的に見ても5本指に入るくらい水質汚染が深刻らしい。今話題の環境活動家、グレタ・トゥンベリさんなんかが目にしたら、あまりの酷さに卒倒しちゃうんじゃないだろうか。ここでは糞便もゴミも、洗濯後の排水も工業汚水も、すべてが一緒くたに流されている。観光ついでにここで沐浴した外国人が皮膚炎や下痢、発熱を起こしたしたなんてのはよく聞く話だ。

 一応それでもガンガーはヒンドゥー教において「聖なる河」だ。ここで勘違いしてはいけないのは「清」と「聖」は決してイコールではない、ということだ。無菌で無害、安心安全な状態は清潔(clean)と呼べるが、それは宗教的に尊いこと(holy)と同義ではない。また、衛生的に「汚(よご)れている」ことと、宗教的に「汚(けが)れている」こともノットイコールだ。ガンガーで沐浴するのは、雑菌を落として清潔になるためではなく、自身が被った不浄を清めるためだ。

 f:id:gothiccrown:20191221135317j:plain

 ……なんて僕が考えている目の前で、河で洗濯したり、豪快に体を洗っているインド人がいたりして、何というかもう、ものすごいなァとしか言えなかった。教育の不行き届きから衛生観念が欠落しているのかもしれないし、貧困からライフラインが整った家に住めていないのかもしれないし、彼らがそうしている真の背景は知らないけれど。

 でもそうした生活感MAXのインド人たちは、いくら眺めていても飽きなかった。僕は日本でこうした「他者と空間を共にする人の生活」というものをほとんど目にしてこなかったからだった。銭湯には数えるほどしか行ったことがないし、河原での洗濯なんて生まれてこの方目にしたことがない。「おばあさんは川へ洗濯に」なんて昔話の枕詞としてしか聞いたことがない。「井戸端会議」といった言葉からも連想されるような、水場に人が集まって生活を共にしているような光景、日本ではもうほとんど残ってないんだろうなァ、なんて考えていた。それはもちろん衛生観念の浸透とライフラインの発展のおかげだから、素晴らしいことではあるのだけど。ガンガーでのびのびと洗い物をしている人を見ていると、そのたくましさが自身にないような気がしてきて、僕の興味の視線はそのうち羨望のまなざしに変わっていたように思う。あの言葉にならないエネルギー、一体何なんだろう。

 

 

火葬場で燃えていたのは死ではなく生だった

 ガンガーのほとりには「ダシャーシュワメード・ガート」「ハリシュチャンドラ・ガート」と呼ばれるふたつの火葬場がある。死者はここで荼毘に付され、遺灰はガンガーに流される。それによって輪廻から解脱、つまり無限に続く生まれ変わりヒンドゥーの教えでは84万回も転生しなくてはならないらしい)の宿命から解放されるという。何故そのような言い伝えがあるのかは、ガンガーの神話から伺い知ることができる。


 インド神話の時代、仙人の怒りをかって理不尽にも殺された6万人もの王族がいた。彼らの霊をすべて弔いきるには、天界を流れるガンガーの特別な水が必要だった。王族の子孫は神に祈りを捧げ、河そのものの化身である女神ガンガーは願いを聞き届け、地上に降りてやることにした。この時、流れがあんまりに激しいものだから「このままじゃ地上が割れちゃう!」とシヴァ神が髪の毛で受け止めてくれたりもして、ガンガーの水は無事地上にもたらされ、王族の魂は皆天界にのぼることができたという。そして今も、天界に繋がるガンガーに遺灰を流せば、現世に転生することなくそのまま天界にのぼれる=輪廻から解脱できる、と信じられているワケ。

 ちなみに絵の中のシヴァ神はいつも頭の上からうどんみたいな何かをぶら下げてるけど、あれはシヴァが髪で受け止めているガンガーの奔流で、何なら髪の中に河そのものである女神ガンガーが描かれている時もある。口からピューッと水を吹いているのがちょっとかわいい。

f:id:gothiccrown:20191221060302j:plain

 

 と話が脱線したが、火葬場では荼毘の炎が烈しく燃え盛り、灰はもうもうと舞い、いくら腕で顔を覆っても息が苦しかった。死者と共にくべられた美しい極彩の布々はみるみる焼け朽ちて、突き出た死者の足は肉漿を垂らしながら黒焦げていく。遺体が火にくべられてから燃え尽きるまで眺めているつもりが、すさまじい熱気と火煙に、とても長時間はいられなかった。何度も目に煙が染みて、僕は薪の山から顔逸らした。とその視線の先に、ふとガンガーの対岸が見えた。

 ガンガーの向こう側の河辺は不浄の地とされていて、そこにはどんな建物も建っておらず、ただ砂浜が広がっている。さきほどまで遺体が焼かれる景色を凝視していてその向こう岸を見た瞬間、「ア、彼岸だ」と思った。けれどそれは人が死んだ後に向かう神秘に包まれた異世界なんかじゃなかった。ただ俗世の汗ばんだかがやきを享受しなかっただけの、何もない、取り残された地のように見えた。

 

 途端に、僕の中でくすぶっていたあの鬱積したパトスが、ドカンと爆発するような感覚に襲われた。

 

 よくバラナシは生と死が渾然一体となった地だ、なんて言われたりする。人々の赤裸々な生活や、生者の祈りが繰り広げられている傍で、遺体が焼かれ、畜生が野垂れ死にしている。僕もバラナシについて調べていた時は、ここが生と死のすべてが地続きになっている場所であるような、前述と似たような印象を抱いていた。でもガンガーの荒涼とした向こう岸を肉眼で目にした瞬間、そんなワケあるかと思ってしまった。こちら側――ガートとは、インドのすべてのエネルギーが、ガンガーの縁の縁まで津波のように押し寄せて、たけり狂うかのよう生を豪語している最果ての地だった。荼毘の炎は、その賛歌に呼応するかのごとく烈しく燃え上がる。それは死者の弔いではなく、死者を食らい死を糧にして、これでもかとたからかに生を謳うインドのパトスそのものだった。

 ガンガーは暗緑色の境界線だった。遠藤周作がガンガーについて記した小説に『深い河』と題したのを、言い得て妙だと思った。その時の僕には、ガンガーが深い深い、奈落のような崖に見えたのだった。そして僕はそこへ押しやられ、墜落してゆくだろう者だ、と。ガンガーを挟んだこちら側では、言葉もなく理由もなく、ただほとばしるような衝動的な生が、死を足蹴にして哄笑している。こんな奔放で暴力的な生を、僕はついぞ生きたことがなかったから、僕の住むべき場所があるとすれば、あの荒涼とした、黄ばんだ砂に覆われのっぺりとした向こう岸だと思った。

 旅の過程で全身に浴びてきた生そのものの熱量が、その瞬間ついに臨界点を超えて溢れ出し、冷めた僕の魂を温めるどころか、丸飲みにしてしまった。

 僕はすっかり骨抜きにされて、尻尾を丸めた犬のようになってすごすごと宿に戻った。その後バラナシにいる間、火葬場に近寄ることは二度となかった。

 

 

空っぽになってしまった

 自分にとって満足いく人生は何だとか、理想の死に方はどうだとか、過去も未来もひたすらに言語化してきた自身の生を想った。それは生への意欲が低かったせいだけれど、それすらも頭でっかちだなァ、と思った。理屈と共に生を歩むのではなく、もっと本能的に生を駆け抜けるような熱が、人にはあるのかもしれなかった。そのパトスの存在に気が付かないまま、頭でばかり考えている内に、僕はガンガーの向こう岸の人間になってしまったんじゃないか。

 でも今さら何をどう取り返せばいいのかも分からないし、取り返したところで、日本という国では邪魔にしかならないような気もした。そもそもそれが自分にとって本当に必要なのかと聞かれたら、これまた疑問だし。でも自分にないものを言葉すっ飛ばしてまざまざと見せつけられた衝撃というものはそうあるものじゃなくって、あの時にバラナシで襲われた虚脱感から、いまだにどうにも立ち直れていない。

 ガンガーのほとりですすった、あの死ぬほど甘いチャイがもう一度飲みたい、と思った。生きるほどに辛い、を、辛いほどに生きる、に変えたいと思った。

f:id:gothiccrown:20191221135340j:plain

いちばんわかりやすい インド神話 (じっぴコンパクト新書)

いちばんわかりやすい インド神話 (じっぴコンパクト新書)

 
深い河 (講談社文庫)

深い河 (講談社文庫)