さかしま劇場

つれづれグランギニョル

100日後に殺されたワニ

 きくちゆうき氏が2019年12月12日から2020年3月20日にかけて、Twitterに連日投稿した『100日後に死ぬワニ』。回を追うごとにジワジワと人気を集め、投稿されるたびにトレンドを席巻するようになったこの四コマ漫画は、100日目にワニが死んだ日には阿鼻叫喚とも言える反応の嵐がTwitterに吹き荒れました。最終回のツイートには221万をこえるいいね数が付き、これは2020年4月現在、日本一のいいね数らしい。(2位は松本人志「後輩芸人達は不安よな。 松本 動きます。」で167万いいね)

 で、それだけブームになったものだから、LINEスタンプ発売だの書籍化だの映画化だの、あとこまごまとした大量のコラボ等々、すさまじ数のメディアミックス展開がされて、「ワニはステマだったのでは」と炎上するまでがマクドナルドハッピーセット。その火に油を注いだのは、「このワニステマには電通が関与している」という疑惑だったらしい。みんな電通嫌いすぎでしょ。ハンバーガーにはさまってるピクルスぐらいの嫌われ率ですね。僕は好きです。あ、ピクルスの方が。

 

 「失望しました!書籍買いません!」なんて反応もいくつも目にしました。が、そういう奇声をあげるのはいつだってハナから買うつもりもない人たちなので、かえりみる必要もないでしょう。ネットで何でもタダで楽しめてしまうことに慣れているせいか、金のにおいがすると急にアレルギーが出るようです。叩かれようが炎上しようが、買う人は買うので、金になれば何だってイイのだと思います。もうかれば何だって正しいんです。僕たちの社会は資本主義なので。

 そんな社会で生きる女の子と死ぬワニのお話があります。岡崎京子の 『pink』です。

 ちなみにこの作品のワニはきっかり100日後に死ぬワケではありません。ブログタイトルはただの便乗です!

 

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 1989年の2月から7月にかけて週刊誌『NEWパンチザウルス』で連載された漫画です。作者のあとがきから引用すれば、「東京というたいくつな街で生まれ育ち『普通に』こわれてしまった女のこの”愛”と”資本主義”をめぐる冒険と日常のお話」。*1

 昼はOL、夜はホテトルとしてはたらくユミは、マンションの自室にワニを飼っていました。しかしそのワニは、ユミを快く思わない継母によって殺されてしまいます。ワニを失ったユミは、継母のツバメであったハルヲくんと南の島へ行くことにしますが、空港に向かう途中でハルヲくんは交通事故で死んでしまいます。ユミは何も知らないまま、空港でうっとり彼の到着を待ち続ける、というところで物語は終わります。

 この漫画におけるワニとは、いったい何だったのでしょうか。

 

  まずワニを飼っている主人公の「ユミ」のキャラクター性をおさえておきたいのですが、彼女は一貫して享楽的な女性として描かれています。その価値観が、ハルヲとレストランでディナーを楽しんでいる時の発言ににじんでいます。*2

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 ↑の次ページでは、ユミの実母が首吊り自殺して亡くなっていたことが明かされるのですが、ユミは今なお、その死んだ母を慕っています。本作のタイトルが『pink』であるのも、ユミの好きな色がピンク色であるからですが、なぜ彼女がピンク色を好きなのかといえば、それが亡き母のネイルの色でもあったから。*3

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 実母の自殺の原因は作中では明言されていません(父親の浮気が原因のひとつだと推測される場面はある)。しかし上記のディナーの会話のあとに実母の自殺のエピソードを配することで、 実母は自殺をもって「シアワセじゃなきゃ死んだ方がまし」という精神性を体現した、と読ませる引導になっていると思います。そしてその実母の自殺という衝撃が、「シアワセ」を何より重要視するユミの精神性に影響を与えているのだろう、とも。


 ユミの「シアワセ」は、基本的に即物的で刹那的なものです。衝動的にバラを買い、マニキュアを塗り、例えイヤなことがあっても、布団の中で翌日の朝ごはんと新しいインテリアのことを考えていれば、すっかり夢中になって「しあわせなきもち」になることができます。その「シアワセ」はとめどない金銭の消費から生まれるが故に、ユミは毎日、昼も夜も馬車馬のごとくはたらきつづけます。*4

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 そんな彼女の生活の中心にいるのが、ワニでした。彼女がホテトルまでして日夜働くのは、ワニの大食いが理由のひとつにある様子です。*5

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 ↑のページで終われば、ユミはただのペット想いな女の子なのですが、彼女は自身の欲望にまったく歯止めをかけることができません。*6 作品を読み進めていくと、彼女がホテトルをやっているのは、ワニのためだけではなく、彼女の享楽的な生活を維持するためでもあるということがわかってきます。

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 そうして見てみると、『pink』に登場する大食いのワニは、ユミががんばる理由でもある一方で、ユミの欲望の大きさそのものであるようにも思えてきます。

 ユミは腹が立つと、「ワニのエサにしてやる」という言い回しをよくします。*7 ユミの欲望の象徴でもあるワニが、「シアワセ」への障害を食らうというこの図式は、他者の妨害を決して許さないユミの欲望の暴力性や、猪突猛進な姿勢の暗示にも見えてきます。

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 『pink』におけるワニとは、ユミのとどまるところをしらない欲望の原動力であり、象徴でもあったのだと思います。そしてこのようなワニは、大なり小なり僕たち皆が胸の内に飼っているモンなんじゃないでしょうか。

 

 ちなみに『100日後に(交通事故にあって)死んだワニ』に対して『pink』のワニはどうやって死んだかというと、ユミのことをうとんでいる継母によって殺され、ワニ革のカバンにされてしまうというオチです。

 ワニがいなくなったことで、欲望があって、それに猛進する生き方をしてきたユミは、遮二無二はたらく原動力を失いました。欲望の矛先、果ては欲望そのものの象徴であるワニが目の前から消えて立ち止まった途端、ユミは発作に襲われます。

「どうしてあたしはここにいるの?」

「どうしてここに立っているの?」

「だれかあたしをたすけて おねがいです」*8

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 這う這うの体で帰宅したユミは、ハルヲくんを目にしてすぐ南の島へ行くことを提案しますが、 これはワニを失った現実からの逃避行、そして新しい「シアワセ」への欲望をかきたてる、ワニに代わる何かを探すために他なりません。

 ここでのハルヲくんの「ユミちゃんにヨクボーが芽ばえたことのほーがうれしかった」という内心の台詞*9が印象的です。 ユミという女の子は、欲望と、そこから生まれるパワーありきであることがわかります。

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 ハルヲくんが交通事故にあったことで、ユミの旅行は中止になるであろうことが暗示されて作品は終わりますが、ユミは新しい「ワニ」を浴室に、あるいは胸中に飼うことはできるのでしょうか。その「ワニ」を飼わない、という選択肢はきっとユミにはできないだろうと思います。彼女は「東京というたいくつな街で」、失った実母の愛と資本主義の前に「『普通に』こわれてしまった女のこ」だからです。

 

 ユミの欲望と消費のとてつもない速度と大きさは、すでに過去の若者像で、貧困が叫ばれている令和の若者の感覚とはちょっと異なるかもしれません。けれど僕たちはいつも、何かが欲しいという欲望と、それを金銭で手に入れるという消費を繰り返して生きています。

 『100日後に死ぬワニ』の書籍を買わない、という選択肢を呈した人も、その根底には「お金には価値がある」という発想があるからで。だから商売への抗議が「不買」という行為に結びついています。お金に価値を感じていなければ、反発はもっと違う形をとるはずで。いわゆる嫌儲(他人の金もうけを毛嫌いする人たちを指すネットスラングも、結局は資本主義の一部ということです。

 

  日本社会にうまれた僕たち皆が、胸の内に欲望の大食漢たる「ワニ」を飼っているんじゃないかなァと思います。故に『pink』のユミのように、今日もよろこんで労働に従事し、「ワニ」をおおいに肥え太らせてしか、資本主義にくみこまれた僕たちの「シアワセ」はきっとありえません。欲望をふりかざしましょう。刹那的な消費を繰り返しつづけましょう。いつかこの凶暴な「ワニ」が死ぬ日までは。

 いったいそれは、何日後になるんでしょうかね。

 

pink

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  • 作者:岡崎 京子
  • 発売日: 2010/07/29
  • メディア: コミック
 

*1:岡崎京子(1989)『pink』マガジンハウス, 255頁.

*2:同上, 204頁.

*3:同上, 14頁.

*4:同上, 13頁.

*5:同上, 11頁.

*6:同上, 155頁.

*7:同上, 9頁, 90頁.

*8:同上, 216-217頁.

*9:同上, 218頁.