さかしま劇場

つれづれグランギニョル

『この世界の片隅に』は過大評価されすぎている

 8月になると毎年、テレビでは反戦番組が特集されます。金曜ロードショーでも『火垂るの墓』『硫黄島からの手紙』などが毎年放映されてきましたが、きっとこれからその常連に仲間入りするであろう映画が2016年に登場しました。

 『この世界の片隅に』です。

f:id:gothiccrown:20200811215701j:plain

 すでにご存知の方も多いと思いますが、これは昭和9年(1934)~昭和20年(1945)の広島を舞台に、終戦を迎えるまでの人々の生活を描いた作品です。

 本作が『はだしのゲン』のようなヒロシマ原爆を扱っていながら、それとは一線を画すと評価されているのは、この作品が「アジってない(扇動的でない)」ところにあるようです。戦争をテーマにするとどうしても作家主義といいますか、作者の「戦争はダメです!」というメッセージが色濃く出てしまって、それに世間はそろそろ辟易してきているのですが、そんな中『この世界の片隅に』はお説教くさくない、でも戦争を考えさせられる作品として、高い評価を与えられているようです。

 確かに僕も鑑賞した際に感じたのは、これは「日々の営みが戦争によって破壊されていく人の話」ではなく、「戦争にいくら破壊されても日々の営みを続けていかねばならない人の話」なんだな、ということでした。ただしその点が手放しで賛美されているところに、ちょっと違和を感じたのも事実でした。

 あらかじめ記しておきますが、僕は『この世界の片隅に』を非常に良くできた作品だと思っています。ただし、その感動は新鮮なものではなく、また世間の評価が『この世界の片隅に』の本質とズレているとも感じています。 ということで、今回は『この世界の片隅に』の個人的評価ポイントと、反対に批判ポイントをまとめておきたいと思います。

 

 

 

概要

 まずは概要から押さえておきます。必要ない方は読み飛ばしてどうぞ。

 劇場版『この世界の片隅に』は、2007~2009年に「漫画アクション」に連載された、こうの史代さんによる漫画が原作となっています。2011年と2018年の2回、TVドラマ化されており、2016年には、片渕須直氏が監督・脚本を手掛けた劇場アニメ―ションにもなりました。今回批判したいのは、この劇場アニメーション版です。

 片渕氏は映画化を企画した2010年から、作品にリアリティをもたらすために徹底した時代考証や現地取材を重ね、2012年には「映画化しまっせ」という制作発表をしたのですが、資金調達のめどが立たず、クラウドファンディングを開始します。当初の目標は2000万円だったのが、期日までに集まったのはなんと3912万円という、クラウドファンディング界での支持者数過去最多人数、金額も(映画部門では)国内最高記録という結果を叩き出し、制作前からかなりの期待を寄せられていた作品でした。そんなこんなで4年間の制作期間を経て2016年に公開された本作は、国内外で非常に高い評価を受けることになります。

 上映時間は120分。本来計画されていたのは150分のプログラムだったのですが、製作費がかかりすぎるということで主に白木リンのエピソードなどがカットされました。このカットされた内容と、新しいシーンも加えて2019年には『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』というタイトルで新しいバージョンも作られています。この新版の上映時間は168分もあるそうで、キャラデザや作画を担当した松原秀典氏によると、アニメーション映画史上最長らしい(ホンマかいな)。

 

 あらすじは今さら説明するまでもないかもしれませんが、主人公の浦野すずが広島市から呉市に嫁ぎ、そこで色々ありながらも自分の居場所を見つけていく、というのが本筋になっています。

 ちなみに作中では主人公らを襲う呉の空襲がたびたび描かれてるんですが、「何で呉にこんなに爆撃が?」と初め観た時はわからなかったんですよね、無知ハズカシー! 呉には東洋一と謳われた海軍工廠があり、戦艦「大和」に代表されるような、あまたの艦艇を作っていたらしい。なるほど、アメリカ軍からしたらここを潰せば日本の海軍に甚大な被害を及ぼせるワケだ。

wararchive.yahoo.co.jp

 で、激化する空襲の中、主人公たちはどうなるのか? という本筋と同時に、すずの実家がある広島市には原爆が落とされます。すずの実家の浦野家はどうなるのか? というのも、本筋と並行して描かれています。

 

 僕たちはヒロシマ原爆という事前知識を持った状態で鑑賞に臨んでしまうので、こういう映画を「原爆というカタストロフまでのカウントダウンの話」と捉えてしまいがちではあるのですが、本作の真のフォーカスは「それでも生活という営みを続けていく」というポイントに絞られています。物資の困窮がある、激しい空爆がある、原爆もある。でもそれはあくまでキャラクターをとりまく時代の情勢にすぎません。「何でも使うて暮し続けるのが、ウチらの戦いですけぇ」というすずのセリフがありますが、僕が観た時に感じたのは、これは「太平洋戦争という戦い」の話ではなく、この時代に「家や台所を守るという戦い」を繰り広げた女の話なんだな、ということでした。

 

 

 

高評価ポイント

  とてもよくできていると感じたポイントを、4つ記しておきます。

 

①生活のリアル

 本作は昭和9年(1934)~昭和20年(1945)の約10年間の生活の様子を描いているワケですが、当時の臨場感が尋常ではない。 正確に言うと、

  1. リミテッドが省きがちなシーンにあえて割かれている作画枚数
  2. 徹底した時代考証にもとづくリアリズム

  の2点において、『この世界の片隅に』は頭ひとつ抜きんでていると感じています。

 

 ディズニーなどのフルアニメに対して、日本のアニメの主流はリミテッドアニメだと言われています。アニメーションとは、1枚1枚絵を描いてそれを連続して写すことで絵が動いて見せる――いわばパラパラ漫画の原理でできているワケですが、フルアニメというのは1秒間に24枚(時に30枚)の絵をすべて描く手法のことを指します。『白雪姫』(1937)などはまさにそれで、キャラクターが静止しているシーンも全部上から線を描き直してるんですよね。その分、フルアニメは写実的でなめらかな動きを表現しやすい強みがあります。

 全然関係ない話ですが『白雪姫』がどれくらいヤバいかというと、例えばジブリは『トトロ』では5万前後だった作画枚数を年々増やして『ポニョ』にいたっては17万枚まで増えてるんですけど、『白雪姫』はそのはるか上を行く25万枚。今でもほとんどのアニメが真似できないバケモンみたいな作画枚数でできています。

 反対にリミテッドアニメは日本でガラパゴス的に進化してきた手法なのですが、1秒間に描く絵が12枚だったり8枚だったり、フルアニメより少なくかつバラバラで、止まって話すキャラクターは顔1枚だけ描いてあとは口だけ別で動かしておくなど、とにかくコスパ重視なアニメづくりの手法です。

 これは日本のアニメが、ディズニーのようなお金をかけた劇場版ではなく、毎週放送のTVアニメから始まっているってのが大きいそうで。1963年に始まった『鉄腕アトム』のTVシリーズは、毎週放送、1回30分という今現在のアニメシリーズの雛型を作り、ここから日本のアニメの本格的な歴史が始まります。この時に虫プロがリミテッド手法を採用して、それが日本のリミテッドアニメの進化の嚆矢となりました。

youtu.be

 で、リミテッドは動かさなくてもいい箇所はとことん動かさない、描かない手法とも言えるので、するとムチャクチャ動く戦闘シーンとかならはまだしも、何気ない人の会話や食事のシーンは作画枚数を削減されがちな傾向にある。僕たちはそうしたリミテッドアニメの表現に慣れてしまってるところがあるので、生活シーンなんかが挟まってくると、「次に待っているイベントやアクシデントまでの中休み」だと思ってしまうんですね。派手なシーンに比べて集中力が落ちて、肩の力を抜いてしまう。 

 でも『この世界の片隅に』は、この普段リミテッドで手間を省かれがちであった生活シーンにこそ、最大の手間を掛けています。そしてそこを、徹底したリアリズムが貫いています。

 もちろん僕は当時生きてないので、本当に120%リアルなのかっていうのはさすがにわからないんですが、例えば家の作りだとか町の建物だとか、キャラクターの服装、当時の日本の時勢などなど、原作も映画も本当によく調べられてるな~と感じます。原作だと、コマの横にちゃんと注釈も書かれてるんですよね。 例えばすずの父が廃業した理由とか、水原哲の兄が死んだ理由も、ちゃんと歴史とリンクしている。

f:id:gothiccrown:20200811232839p:plain
f:id:gothiccrown:20200811233132p:plain

 

 漫画ほど細かい注釈や説明は入れられないにしろ、映画には確固たる別のリアルが存在しています。いくら調べて舞台背景を正確に描いたところで、その場で動作するキャラクターまで正確に描かなければ、アニメーションのリアリズムは成立しえません。例えば以下は、すずの義理の姉・径子が米を研いでいるシーン。

f:id:gothiccrown:20200811233957p:plain

 水道がないので、左下に水を溜めておく瓶があったり、窓際の貝殻と上に載っているチビた黄色いのは石鹸入れと石鹸でしょう――昔は貝殻の穴が水切りに便利なので、特にアワビなどの貝殻を石鹸やタワシ入れに使ってたそうです。そういう時代考証がきちんとなされた舞台ってのも描かれてはいるんですけど、すごいのは背景以上に、径子の米を研ぐ動作なんです。

 腰をかがめて、力を込めているので右肩があがって指先も力んでいて、米を研ぎやすいように釜をかたむけている。さらにこれは画像なのでわかりにくいのですが、コスパ重視なリミテッドにありがちな、腕だけ動かす作画ではなく、米をひと掻きするたびに上半身が前のめりになって、「全身の力を込めて研いでる」ってのをしっかり作画してるんです。このリアルは、やっぱり人の営みへの誠実なまなざし、観察眼がないとなかなか描けない。

 以上はほんと微々たる例ですが、この映画は徹頭徹尾、生活の中の人間のさりげない動きを忠実に、かつ愛おしげに描いています。当時の家屋や道具を調べて描くくらいならまだ序の口です。その家屋でどう暮らしているのか、道具をどう使っているのか、そこまでリアルに描ききっているからこそ、『この世界の片隅に』のリアリズムは他作品とは一線を画したものになっています。

 

 

②手への強い意識

 『この世界の片隅に』は漫画も映画もキャラクターデザインが独特で、手足が若干大きくデフォルメ化されています。頭が大きいのでそれに合わせたと言えばそれまでなんですけど。

f:id:gothiccrown:20200812000535p:plain

 視線ってまず大きいものに行くので、映画を観ている間「生活を切り盛りする手」っていうところに意識が向くようになっています。これは演出の効果もあって、主人公のすずは絵を描くのが得意なのですが、作中で何度も手がクローズアップされた状態で絵を描くシーンが出てくるんですね。こういうところからも視聴者は、すずの「手」の存在意義を意識させられます。この誘導は漫画より映画の方が巧みですね。映画はすずの手を視聴者に印象付け、その後起こる事件の悲劇性にわかりやすくつなげることに成功しています。

f:id:gothiccrown:20200812001800p:plain
f:id:gothiccrown:20200812001811p:plain

 例えば上↑は料理してる時のすずの手ですが、鍋に馬鈴薯を加えている右手が上機嫌で小指が浮いています。また、大根の皮を切る包丁を握っている手も、人差し指が持ち手の上の方を支え、中指、薬指でシッカリ握って、小指は支える程度に添えられてるという、決してグー握りで描かないという徹底した作画。反対に紅を取る時のすずの手は、ちょっと気取ったように、指が曲線的にしなっています。

f:id:gothiccrown:20200812002508p:plain

 手の作画だけでこんな雄弁なアニメも、(ゼロとは言わないですけど)なかなかないんじゃないでしょうかね。

 アニメの料理シーンとか食事シーンの話をする時、宮崎駿新海誠あたりの作品がよく取り上げられたりしますが、多分宮崎も新海もここまでは描けないんじゃないかなァと思います。描く必要がないというか、彼らが作っているのは女性の手仕事にフォーカスした作品ではないってのもあるとは思うんですけどね。 

 そう考えた時、僕はとある人物の発言を同時に思い出していました。さいとうなおきさんという、ポケモンカードなどのデザインをされているイラストレーターさんがいらっしゃるのですが、彼がにじさんじVtuber・星川サラのファンアートを添削している動画で、こんな発言をされています。詳細は6:47あたりからご確認ください。

youtu.be

 以前「『鬼滅の刃』の作者・吾峠呼世晴先生は女性」という噂が話題にのぼりましたが、上↑の動画の中で、さいとうさんは「絵を見ればすぐにわかった」ということを仰っています。『鬼滅の刃』では、例えば主人公・炭次郎が妹を助けるために必死に剣の修行をして、手の皮がむけたりタコだらけになったりと「苦労が手ににじんでいる」描写が、何度も何度も描かれています。

f:id:gothiccrown:20200812010147j:plain

 さいとうさんは「週刊連載というスピード命な漫画制作の中で、ここまで手にこだわって作画時間を割いているのは、手への意識が男性よりもよっぽど強い女性にちがいないと思った」という旨のことを動画内で述べられています。

 僕はこれを聞いてそこそこナルホドな~と思ってですね。「女性だから」「男性だから」って言い方はできるだけ避けたいのですが、ネイルをするだとか、料理だの裁縫だのといった家事だとか、今でこそジェンダーフリーになってきてはいますが、現代に入るまでは女性のおしゃれだったり、仕事であったことは事実です。

 『この世界の片隅に』では、そうした生活を支える女性の手、そして男性以上に強い「女性の自身の手への意識」というのが綿密に描かれています。ただ昭和の生活を描くなら、サザエさんで十分なワケです。でも『この世界の片隅に』は昭和の生活だけでなく、「生活を支える手」というところにまでフォーカスが当たってる。これが、日々の営みを支える女性の強さだとか、しなやかさの演出になっていて、非常に秀逸なポイントだなと感じました。

 一応原作者のこうの史代先生も女性なんですけど、まァ女性だから描けたというよりは、こうの先生は手にこだわりや意識を持っている方だった、あるいは女性ならではの手への強い感覚性みたいなのを理解していて、それを作品に落とし込んだ、という指摘の仕方をした方が、語弊はないかと思います。




③心理の解離 

 主人公のすずは「ぼんやりしている」という性格付けをされていて、絵を描いていると周囲に気づかなくなったり、現実と空想の境があいまいになったりすることがあります。まァこの程度なら誰にでもある、健康的な範囲ではあるんですけど、つまりは心理的な解離を起こすタイミングがあるんですね。

 これが顕著なのが空爆を受けてる時、ショックな事件が起こった時。本来なら一刻を争うような切迫したシーンほど、すずの視界は絵画になって静止してしまいます。

 例えば山の向こうから戦闘機が大量に飛んでくる場面。これから敵機との航空戦が始まるので早く物陰に隠れなければ、と緊張が走った瞬間、すずの視界は絵画になってしまいます。

f:id:gothiccrown:20200812011637p:plain

 戦闘機が撃ち合いをしている煙が筆で散らした水彩になったり、散らばる砲弾の破片はまるで花火。ちなみに後者はゴッホの《星月夜》のオマージュだと思われます。

f:id:gothiccrown:20200812012034p:plain
f:id:gothiccrown:20200812012039p:plain

 こうした表現は、「今目の前で起こっていることは現実ではなく、絵に描かれたフィクションなんだ」と捉えようとする心理状況の表れのように見えます。それは、戦争とはまったく無縁の生活者だからこその現実味のなさでもあり、空襲の恐ろしさや今が戦時なんだという事実を心理的に受け入れられない、無意識の心の防衛機能がはたらいているとも考えられます。

 美しい絵画でありながら、そこに落ちているのは戦争の暗い影である、という、またすずが戦時の景色をどう捉えているのか、あるいはどう受け入れられていないのかという暗示になっていて、非常にうまい表現だなと感心しました。


 

④「世界の片隅」であること

 『この世界の片隅に』のタイトルにもつながる、重要なすずのセリフ。それが「周作さん ありがとう この世界の片隅に うちを見つけてくれて ありがとう 周作さん」というものです。映画のスクリーンショットだとわからないので、以下に漫画を引用してきたんですけど。

f:id:gothiccrown:20200812013007j:plain

 これを聞いた時、僕はその異質さに驚きました。普段サブカル作品にまみれているオタクほど、このセリフは異質に聞こえるのではないでしょうか。

 

 その昔、『世界の中心で愛を叫ぶ』という作品がありました。2001年に小説として出版され「セカチュー」ブームを巻き起こし、社会現象にまでなった大ヒット作品です。このタイトルにも明示されている通り、フィクションで恋愛が描かれると、どうしても世界観が主人公と恋人の周囲に限られがちで、ついついセカイ系と通じるものになってしまうんですよね。セカイ系というのは、物語が主人公とその周囲のみで展開して、主人公の一挙一動が政治や国といった中間項を挟まずセカイの存亡に関わるという、サブカル作品にありがちな、ひとつのストーリーテンプレを指す言葉なんですけど。『最終兵器彼女』『新世紀エヴァンゲリオン』『涼宮ハルヒの憂鬱』とかわかりやすいセカイ系ですね。あと最近のなろう系――というか異世界転生モノもほぼほぼセカイ系

dic.nicovideo.jp

 

 わかりやすく、かつキャラクターの行動原理に簡単に重大な意味を持たせられるので、もはやセカイ系はアニメや漫画のお決まりといっても過言ではないテンプレになっていて、もう食傷を超えて腹壊すレベルで多くの作品がセカイ系の骨子を持っています。そしてそれを鑑みた時、『この世界の片隅に』の異色さが際立ってくるのです。

 『この世界の片隅に』はやわらかな可愛いらしい絵で中和されているものの、作中をわりと複雑でオトナな三角関係が交錯しています。この作品はある意味、それまで顔も名前知らなかった周作という男性といきなり結婚したすずが、周作を自分の好きな人、自分の旦那だと認識していくまでの話でもあります。

 するとここでサブカルがやりがちなのは、「本当の愛に目覚めていく私たち、しかしそれを引き裂く無慈悲な戦争!」という展開です。自分たちの恋愛が第一にあって、それを邪魔する障害をまるで世界の破滅のように、この世の終わりのように描きがちなんですね。

 しかし『この世界の片隅に』はそうではありません。あくまですずは「世界の片隅」にいる女性で、「世界の中心で猛烈な愛に燃える主人公」ではなく「世界の片隅でようやく愛を見つけた主人公」として描かれています。これがなかなか特殊な漫画、映画だと僕は感じました。


 

 

 

批判ポイント

 これだけベタ褒めしておいて何なんですけど、以上は「頭で感動した」ポイントであって、実は僕のハートに『この世界の片隅に』はあまり刺さりませんでした。その理由となった個人的な批判ポイントを3点、併せて書いておきたいと思います。

 

①決して新しくはない視点

 『この世界の片隅に』の評価の多くにこういう声があります。

反戦をアジらない、作家主義すぎないところに新しさがある」

 僕もこれは間違いではないと思っていて、概要で書いた通り、これは「太平洋戦争という戦い」の話ではなく、この時代に「家や台所を守るという戦い」を繰り広げた女の話だと認識しています。でもそれは、あくまで目新しさであって、イコール手放しで評価できるような素晴らしさでもあるのか、というと、それは別だと思うんですよね。グロくてショッキングなシーンをいっぱい描いて、視聴者に戦争の悲惨さを真正面からぶつける作品がすばらしいと言ってるワケではないです。『この世界の片隅に』は戦争批判が弱いので刺さらなかった、と言ってるワケでもない。

 この映画のフォーカスは戦時を生きる人々の「生活」であり「人とのつながり」だと先述しましたが、だた、そんな映画って別に他にもあるよな~と思ったりしたワケです。ロベルト・ベニーニ『ライフイズビューティフル』(1997)しかり。ジュゼッペ・トルナトーレニューシネマパラダイス(1988)も、映画オタクの話みたいに認識されてるかもしれませんが、個人的には戦後の貧しさの中で、映画や村への愛と共に成長した少年の話だと捉えています。

ライフ・イズ・ビューティフル (字幕版)

ライフ・イズ・ビューティフル (字幕版)

  • 発売日: 2016/12/01
  • メディア: Prime Video
 
ニュー・シネマ・パラダイス (字幕版)

ニュー・シネマ・パラダイス (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 まァ上記の主題はホロコースト第二次世界大戦なので、確かに日本の太平洋戦争をそういった視点から描いたという点では『この世界の片隅に』は新しく、かつ偉業を残したと思うんですが、世界を見ればすでにそういう作品あるワケで。「ワーこれは新しいのが出たな」という納得はあったんですけど、今さら「ウワーッこう来るかスゲーッ!」て驚くくらいの斬新さには欠けますし、そこまでに賞賛するようなモンだろうか、印象でした。

 

 

②二番煎じの構造

 「それまでの戦争とは無縁の人の生活を愛おしく丁寧に描いてるからこそ、戦争のせいですずの身に起こってしまった悲劇が胸に迫る」といった評価も目にしたんですが、これも今さら衝撃的!と拍手できるほどのものではないです。日々の何気ない平和な生活がすさまじいカタストロフによって破壊される、このテンプレ自体は戦争モノにしろそうでないにしろ、もう何番煎じ感はしています。

 例えば「原爆」っていうネタに限定して言っても、『草原の実験』(2014)は『この世界の片隅に』とまったく同じ骨子を持つ映画ではないでしょうか。カザフスタンと思われる大草原で父と暮らす美しい少女が、三角関係にもまれたり、別にそんな好きでもない男性の家に嫁ぎそうになったり、そういう家族や男女関係を美しい描き口でえがいてるんですけど、ある日その平和は核実験のカタストロフによって破られる……という。カザフスタンって核実験による被爆がすごく深刻な国らしい。ご存じない方は「セミパラチンスク核実験場」とかで検索してください。

草原の実験(字幕版)

草原の実験(字幕版)

  • メディア: Prime Video
 

 レイモンド・ブリッグズの漫画が原作になっている『風がふくとき』(1986)も、仲の良いイギリスの老夫婦が何でもない平和な生活を営んでるんですが、その安寧は核によって破られる、というテンプレ。これ主題歌をデヴィッド・ボウイが歌っててけっこうイイです。

風が吹くとき デジタルリマスター版 [DVD]

風が吹くとき デジタルリマスター版 [DVD]

  • 発売日: 2009/07/24
  • メディア: DVD
 

 まァそんな先行作品があるので、庶民の生活が戦争、原爆といったカタストロフによって踏みにじられるというテンプレにはもう慣れていて、『この世界の片隅に』も、すでに鑑賞前から(多分そういう話だろうな~)みたいな心構えがあったので、頭を殴られるような衝撃には至らなかったです。もちろん悲惨ですし、胸に迫る描写もたくさんあるんですけど。

 

 

 

 

③「泣ける映画」評価への反発

 最後に「『この世界の片隅に』は泣ける映画」とする風潮への反発を書いておきます。

 『この世界の片隅に』を見て涙しました、という事実それ自体は、別に批判されるようなことではありません。どんな作品であろうと、心の琴線に触れてふいに涙がこぼれてしまう、という体験は素晴らしいものだと僕は信じています。なので『この世界の片隅に』で泣きました、っていう体験自体は素敵なことだと思います。しかし『この世界の片隅に』は泣ける映画である、とする評価には、ちょっと疑問を覚えます。

 確かに『この世界の片隅に』の「泣きポイント」は色々あるでしょう。例えば(ネタバレ回避で具体的には書きませんが)、すずの身に大きな事件が起こるシーンとか、終戦のシーンとか、ラストのシーンとか。どうしてこんな理不尽なんだろう、どうしてこんな悲惨なんだろう、みたいな胸に迫るシーンはいくつもあります。あるいは離れたりくっついたりしながら、それでもひとつの共同体として繋がっていく家族の温かさみたいなのにも、ウルッとくる人はきそうです。最後は何となく一家団欒みたいな感じで映画は終わって、そこで泣く人もいるかもしれませんが。でも戦争で何にもなくなって、被爆被害もこれからどんどん明らかになっていって、大変なのはきっと映画に描かれていないその先なんですよね。

 もちろんこれまでのしなやかさで、すずたちはがんばって生き抜いていくでしょうが、その本質って「よーしがんばって生きていくぞ!」みたいなポテンシャルではなく、「それでも生きて行かなきゃいけない」という、もっと厳しいところにあると僕は思います。「世界の片隅」で、何もなくなってしまったすっかり貧しくなった国で、見てる方からすればたくましいなァと感心してしまいますが、本人たちはたくましく生きるぞ!って思う思わない以前に、とにかく生きていかないといけないって次元。 

 つまりこの映画の核はそういった「泣きポイント」以上の、もっと乾いた現実にあるのではないか、というのが僕の自論です。そこを「泣ける」と形容してしまうのは、感情を揺さぶる衝撃的シーンに引っ張られすぎて、本質を美化しすぎなんじゃないか、と思わなくはない。それは観ている側の意識だけでなく、作品自体にもそういうきらいがあるのですが。

 『この世界の片隅に』は人間賛歌の映画です。しかしその賛歌はバッハの「主よ、人の望みの喜びよ」みたいな綺麗なモンではなく、「ヨイトマケの歌」みたいな、もっと暗くて、土と汗にまみれた、無味乾燥とした現実、そういう次元のものだと思います。

 そしてそれに気が付いた時、果たして『この世界の片隅に』は依然「泣ける映画」なのでしょうか? 本作の鑑賞後に胸の内に湧き出て来るものがあるとすれば、それは涙というよりは、現実の厳しさ、あるいは人の力強さへの気付き、ではないでしょうか。

 

 

 

おわりに

 ということで以上、『この世界の片隅に』の評価点と、しかしながら自身に響かなかった理由を並べてみました。何だか周囲の過大評価のせいでちょっと冷めた気もせんでもない(天邪鬼)ですが、 僕にとっては手放しで褒めそやせるような好みではなかったとしても、戦争を扱ったアニメとして十分に人に勧められる、そんな良作でした。のんさんの演技やサウンドスケープと呼称するにふさわしい音響、音楽も素晴らしいので、一見の価値はあると思います。

 

この世界の片隅に

この世界の片隅に

  • メディア: Prime Video