そびえたつ紅のロマン、唐組『ジャガーの眼』
5月18日(土)と24日(金)、雑司ヶ谷の鬼子母神堂にて、唐組の『ジャガーの眼』公演を観に行ってきました。
境内の静かな葉ごもりの中に、禍々しい紅テントがそびえ立つ光景は、何度見ても背筋にぞくぞくと興奮が走る光景ですね。
観劇後はいつものことながらその興奮が倍になってもはや地に足が付いておらず、小学生の感想文程度でしか書く気のなかった本文も予想の倍以上の長さになってしまったので、目次から気になる項目だけ適当に読んでいただけると、時間の無駄にならず唐組を観に行くための時間が捻出できます。
- 『ジャガーの眼』あらすじ
- 『ジャガーの眼』は唐作品の中では解りやすい
- 俳優の演技、役どころについて
- 『ジャガーの眼』執筆背景と幻の別エンド
- 寺山修司『臓器交換序説』との関連
- 寺山を通過して唐に至る
- おわりに
『ジャガーの眼』あらすじ
『ジャガーの眼』のストーリーは、角膜移植を受けた青年・シンイチ(役:福本雄樹)と、個人探偵・田口(久保井研)を中心とした、二つの物語軸が並行して進んでいきます。
3か月ほど前に眼の角膜移植を受けた主人公・シンイチは、恋人・夏子(福原由加里)との結婚準備も進み、ささやかながら幸福な生活を送っていました。
そこに突如、角膜の前の持ち主・シンジのフィアンセであったという女探偵・くるみ(藤井由紀)が現れます。くるみは移植手術を受けたシンイチの眼をこう呼びます、「ジャガーの眼」と。
それからというもの、その「ジャガーの眼」は以前の眼の所有者の記憶を呼び覚まし、シンイチの平凡な生活を翻弄していきます。
一方で、サンダル探偵社の探偵・田口(内野智)は、女探偵・くるみからの依頼を受け、「幸せのリンゴ」を追って路地を彷徨っていました。そこに田口の先輩探偵である扉が現れます。
扉はサラマンダ(月船さらら)という名の人形を車椅子に乗せて、田口に仕事の斡旋をします。が、その内実は、サラマンダを田口に押し付けたいというものでした。
断ろうとする田口が扉に押し付けられた双眼鏡で自身の頭の中を覗くと、人形であるはずのサラマンダは生き生きと動き始め、田口への思慕を語り始めます。
何とかサラマンダの呪縛を振り切り、くるみと会う田口。田口はくるみの上司でもあるのでした。
しかし田口には、くるみを助手として抱えたワケがありました。その理由が「ジャガーの眼」にあることが、物語が進むにつれて明かされてゆきます。
『ジャガーの眼』は唐作品の中では解りやすい
唐さんの書く作品は総じて難解で、事前知識なしに一度観ただけでは、正直「よく分かんねェ!!!!」となることがほとんどです(少なくとも僕の場合は……)。
でも今回の『ジャガーの眼』は、とても分かりやすかった。
さほど頭を使わなくても、ストーリーがストンと胸の内に入ってきました。
唐組の芝居が普段分かりにくい理由には色々あると思うのですが、まず比喩に形容だらけの、文字で読んでいても一瞬「ン?」と立ち止まる時間を要するような脚本をものすごい早口でまくし立てるので、聞き取り、さらにそれを理解しながら付いていくのが大変、というのがまずひとつ挙げられるかと思います。
下手しても劇団四季のように、観客にとうとうと読み聞かせるようなセリフ回しなどしてくれません。唐組の台詞はすさまじい突風です。その風速と熱に気圧されたら仕舞いです。
もうひとつは、劇中世界と我々の感覚が往々にしてズレている、というのが挙げられるのでは、と思います。
ちょっと言語化しづらい部分なのですが、例えば、僕たちは普段の生活の中で、物事に優先順位をつけたり、大切なもの/そうでないものの区別を付けて暮らしています。
それは社会や他人と上手く迎合してくためであったり、自分の生活をスムーズに運ぶために欠かせない「ジャッジ」です。
この「ジャッジ」の価値基準が、唐作品では我々の感覚と大きくズレているんです。
僕たちが普段取るに足らないと見過ごしがちなものが、唐作品では登場人物が泣いてすがるほどのアイテムであったり。
僕たちが普段する気も起きない行為こそ、物語に展望をもたらす鍵であったり。
こうした「ズレた感覚」を登場人物がそれぞれ持ち、めいめい傍若無人に動くので、観客は登場人物の行動原理を理解できていないと、台詞や展開に付いていけない、なんてことが往々にして起こります。
今回の『ジャガーの眼』が分かりやすかったのは、そんな上述の2点が軽減されていたのが大きかったのではないかな~、と。
台詞回しは相変わらず豪速球ですが(笑)、語られる台詞自体は過剰な比喩も少なくストレートで、「これは何の暗喩なんだ……?」と頭がグルグルすることがありませんでした。
また「感覚のズレ」も、比較的わかりやすい。
基本的に今回の登場人物は、モノや過去のトラウマに固執するのではなく、人を恋うて動いています。「何でコレが大切なんだろう……」と登場人物に何とか気持ちを寄せていく努力がさほど必要ありませんでした。
ということで、唐作品初体験の人にも、わりととっつきやすい演目なのではないかなァ、と思いました。
もし身の回りに唐組初心者がいらっしゃったら、『ジャガーの眼』から観せれば無事に沼に蹴落とせるかもしれません!
俳優の演技、役どころについて
唐組は、1963年に唐十郎によって結成された「状況劇場」が1988年に解散し、それを後継する形で一部の俳優らと共に再結成された劇団です。
状況劇場のメインを張っていた俳優らは、解散を期に他劇団(新宿梁山泊など)やテレビ界に離散したりもしちゃってますが、それでもまァ唐さんが主宰をしていたという意味で、状況劇場の正統といいますか、直系の後継者は「唐組」なワケです。
なので観客の中には、状況劇場時代からの古参ファンも多数いらっしゃいます。
そうした方々がよく口にするのは、やはり唐組の俳優は状況劇場の俳優には敵わない、迫力に欠ける、というもの。
でも状況劇場を観られなかった僕のような世代にとっては、当時の面影を忍ばせる劇がテントの中で観られるというだけでもうありがたいことこの上無しなワケです。
なので素晴らしいと思った演技は、もう過去のアレコレと比較なしに手放しに絶賛していきたい。
ここからオタクスイッチ入ります。よろしくおねがいします。
青年・シンイチ役=福本祐樹
今回、青年・シンイチを演じたのは福本雄樹さん。
ツイッターを見ていると、芝居が終わるたびに「福本君イケメンだった!」というツイートが毎度散見される。要は二枚目なのである。
ただイイのは顔だけじゃありません。唐組には2013年に入団したそうですが、以降ずっとメインを張っている実力派です。
福本さんの魅力は、うらぶれた痛ましい役もすさんだ感じがよく出ていて(意外と素かもしれない)イイのですが、そこから一転して熱が入った時の忘我の演技ではないかと。これはもう鬼気迫るものがあります。
僕が初めて福本さんの演技を観たのは2015年の秋公演『鯨リチャード』だったと記憶しているんですが、フラワーの小麦粉を頭からかぶりながら口から霧の弾丸のように唾を飛ばして叫ぶ彼の演技は、今なお脳裏に強く焼き付いています。
「味のある演技」とはまた違うのですが、ほとばしる若さが幾万もの灼けたナイフとなって炸裂する、そうした演技をするブラックホースなんじゃないか、と個人的に評価しています。
今回の『ジャガーの眼』では、「平凡」を自称するシンイチ役を務めたため、彼のそんな新星爆発のような演技はそこそこ鳴りを潜めていたんですが。
終盤で恋人の夏子に「ジャガーの眼」を傷つけられてしまい、痛みでのたうち回るシーン。この時の絶叫に、福本さんの狂気じみた神髄をまた垣間見。僕まで叫び出したい気分になりました、この絶叫が聞きたかったんだよ!と。
テントという舞台の内で、かつ演技であるとは分かっているのですが、ちょっと聞いてる方が心配になるレベルの絶叫です。
転げ回る時の跳ね方がまた異常すぎて、顔を抑えているあの手が離れたら下から本当に焼け爛れた顔が現れるんじゃないか、あるいは彼の先祖はカエルなんじゃないかと勘繰りましたね。
初め何でもない小綺麗なスーツ姿で登場したシンイチは、ラストには盲目の狼のようなボロボロの恰好に変化(へんげ)してしまうのですが、その荒れ果てた姿もまた福本さんの乱暴でギラギラとした演技を際立たせるイイ装置になっていました。
両眼を覆う血に汚れた包帯を取り払い、観客の向こうをギッと睨んだあの眼光の鋭さと眩しさは、今の唐組では、若く猛々しい福本さんしか放ち得ないものなのではないでしょうか。
少年・ヤスヒロ役=大鶴美仁音
車にはねられてしまった飼い犬・チロを生き返らせようと奔走する少年・ヤスヒロを演じたのは、唐十郎の実娘・大鶴美仁音(みにおん)さん。
唐組の常連役者ではありますが、前回の公演『黄金バッド』に出演していらっしゃらなかったので(厳密には美仁音さんは唐組の専属役者ではないので毎公演必ず出演されているワケではない)、その時ちょっとガックリしてたんですが、今回また唐組で美仁音さんが観られるとのことで、もうね、半分くらいは美仁音さんを観に行ったと言っても過言ではない。半分というか8割くらい。そのくらい楽しみにしていた。だって好きだし。厚かましくサインまで貰いに行ったし。
美仁音さんもこれまたすごい美人です。
如何に美人かという話はツイッターで散々喚き散らしているのでそちらのツリーを参照いただき、ここでは割愛。
いやァ本当に唐十郎の娘にあたる大鶴美仁音さんが美人すぎて。完璧すぎる三日月眉、杏のようにつぶらながら、微笑むと目尻が風にたわむ柳のように長く美しい孤を描いて本当に妖艶かつチャーミングで…瓜実顔につややかな丸い額とふくよかな色差す頬、極めつけはその海のような黒々とした豊かな髪! pic.twitter.com/aJ4sd5BeKe
— 荊冠 (@GothicCrown) 2017年11月24日
美仁音さんの魅力は、そのアンビバレントな演技にあると個人的に思っています。
2018年の春公演『吸血姫』で、美仁音さんは献身的な「引っ越し看護婦」を演じましたが、物語の終盤で看護婦は娼婦に落ちぶれています。
ここで美仁音さんは、看護婦の清廉潔白な少女性と、娼婦の愁いを帯びた女性性を華麗に演じきりました。
可憐なのに仄暗い、無邪気なのに哀愁漂う、そういう両義性といいましょうか、美仁音さんの演技にはいつも明暗と天地を行き来するような濃淡があるような気がしています。
そうした点から見れば、今回の『ジャガーの眼』における美仁音さんの少年役というのは、今まで彼女の少女役しか見たことがなかった僕にとって少女↔少年のアンビバレントを観測する機会となりました。
少年がしょっちゅう登場する唐作品において、美仁音さんは過去に何度もその少年役をこなしてこられたそうなので、むしろ彼女にとっては十八番(オハコ)なのかもしれません。
ウーン、少女の愛くるしさとはまた違った奔放な愛おしさにあふれている。
尊い。
車にはねられた飼い犬・チロを父に奪われそうになり、「こんなのイヤだよ~!」と叫びながら花道を引きずられて行く時の、駄々っ子のような泣き声。
チロに自分の心臓を移植し、「僕は犬の心臓を持った労働者になるんだ!」と決意の叫び。
田口の冗談に「おじさん、そういうのもう付き合いきれないよ」とヘソを曲げる溜息。
みんな違ってみんないい。
単純に役者として上手いのだと思いますが、声量や仕草でカバーするのではなく、ちゃんと声音から演じ分けられている。
役者としては当たり前かもしれませんが、意外とそのへん拙い役者も結構目にするので、美仁音さんは安心してみていられます。安心安全の美仁音クオリティです。すこです。
女探偵・くるみ役=藤井由紀
藤井さんはしたたかだったり、やさぐれていたり、一筋縄ではいかない女性を演じる時に光る役者なんじゃないかと思っています。
藤井さんのドスをきかせた声がむちゃくちゃ好きなんです、こんな生命力強い女性になりたいと思わせる魅力がある。
一部に反発を買う言い方かもしれませんが、イイ意味で昭和的な女性の美しさがある。
先日ゴールデン街の某ママに『ジャガーの眼』を観たという話をしたら、状況劇場の時代からの唐十郎ファンであるママは1985年の初演も観たそうで、残念ながらその時のくるみ役だった田中容子さんには藤井さんは敵わなかった、みたいなことを言ってました。
田中容子さんは背が高かったそうで、やっぱり存在感みたいなのも随分あったのかな。
実はママが観たという1985年の『ジャガーの眼』初演はYoutubeに公開されてまして、僕もありがたく拝見したんですが。
見たところ田中さんは体格的にもガッシリした感じだったので、華奢な藤井さんよりも迫力はあったかもしれないな~と思いつつ。
動画では背の高さまではイマイチ掴み兼ねたので、ママの言葉にはそうだったのか~と思うに留まりましたが。
でも藤井さんのくるみも、たくましい美しさというより、男装の麗人的な美しさがあって、僕はほれぼれして見てました。
木の葉の舞う風に吹かれながら、高らかに挙げた片手でくるみを鳴らしながら登場するシーン。
人形・サラマンダと睨み合いながら、舞台袖に颯爽と消えてゆく第一幕の幕切れのシーン。
キマりすぎやろ~~~~!!!!
藤井さんはもともとあまり歌が得意でなく、その昔ボイストレーニングに通っていたという噂を聞いたこともあるのですが。
確かに歌詞の切れ目(?)をあんまり伸ばさないな~伸びないな~なんて思ったこともありますが、それがまたやさぐれ吐き捨てるような歌い方のようでもあり、これまた好きなんだな。
人形・サラマンダ役=月船さらら
月船さんは前公演の『黄金バット』から唐組の舞台に登場されるようになりました。
『黄金バット』では片腕を失った女教師の役だったのですが、肩にぶら下がっている義手を観客に途中まで義手と気が付かせないために、軽く肘を曲げたような義手と同じ形で、実の腕の方も姿勢をキープしながら演技をされていたんですね。
これはマジな話で、僕は義手がボトッと床に落ちるシーンまで片腕が義手だったと全っっっくもって気が付かなかったので、月船さんスゲェなと小学生並みの感動をしていたんです。
それが今回また、同じ姿勢でい続けねばならない人形役(笑)
ハマり役というか、姿勢固定が得意なんでしょうか月船さん……。
実は彼女、もともと宝塚歌劇団の月組の男役をやってらした方で、徹底した「型」を再現したり固定する技量がやはりすごいのかな、と推測したり。
宝塚で鍛えた技(?)が光るシーンは他にもありまして、「頭の中で自由に動いてもイイ」と田口に許可をもらったサラマンダが、嬉しそうに踊る場面があるんですね。
ここで月船さんは軽くバレエを披露するのですが、これは本物。
一時の演技でバレエの真似をしてるんじゃない。
これはバレエをやってきた人のバレエ。
あと宝塚の役者なら当然ですが、歌もべらぼうに上手いです。
『ジャガーの眼』で月船さんが歌う劇中歌はそんなに朗々と歌い上げるような旋律ではなかったので、さほど華ある感じではありませんでしたが、前回の『黄金バット』で彼女が「からたちの花」を歌った時なんか、あまりの上手さに観客席がどよめきましたからね。
そりゃテント芝居見に来たのに
ヅカ役者の歌が聞けたら焦るよね。(僕も焦った)
素人が我流で練習して上手くなったのとは違う、教育の中で鍛えられてきたタイプの、ちょっと唐組の他役者にはない実力が月船さんにはあります。
サラマンダに関しては、どうでもいいことをひとつ考えていたのですが、「サラマンダ」って古代ギリシャで世の中を構成していると考えられていた四元素「風・火・土・水」の内の、火をつかさどる精霊の名前なんですね。
劇中の人形・サラマンダは嫉妬に駆られると暴風を呼ぶので、火よりは風をつかさどる精霊の名前「シルフ」の方が良かったんじゃ? と思ったりもしたのですが、燃えるように激情的、という意味で付けられたのかなァ。
劇中でサラマンダの肌のことを「蝋のよう」と形容している場面があるので、そこから炎を連想してネーミングされたのかな、とか。
これは作者の唐さんに直々に聞かねば分からないことですが。
『ジャガーの眼』執筆背景と幻の別エンド
『ジャガーの眼』を観る時に、事前に知っておいた方がベターなキーワードがひとつあります。
それは唐十郎と同時期に小劇場運動の旗手として活躍し、多方面で元祖・マルチタレントとして活躍した鬼才、寺山修司です。
唐と寺山はライバル同士として対立関係にあったイメージが先行しがちですが、下記のインタビュー記事で現唐組座長・久保井研さんが述べられている通り、実際には「兄貴分と弟分」のような、深い関係にあったようです。
『ジャガーの眼』はそんな寺山修司の死後、彼へのオマージュを多分に込めて書かれた作品です。
以下は、1998年にNHK BSにて放送された「20世紀演劇 カーテンコール」という番組の録画動画かと思われますが、ここでの劇評家・扇田明彦との対談の中で、唐さんが『ジャガーの眼』の執筆背景を語っています。
要約すると、唐さんはパリ人肉事件の犯人・佐川一政との文通をもとに執筆した『佐川君からの手紙』という小説を1982年『文藝』に発表し、翌1983年には第88回芥川賞を受賞しました。
これが映画化される計画があり、小説のシナリオ化を寺山修司に依頼していたそうです。
しかし寺山はその矢先、肝硬変で倒れ、河北総合病院に緊急搬送されてしまいました。
入院を余儀なくされた寺山のもとに足繁く通っていた唐さんは、寺山の眠るベッドのそばに並べ置かれていたサンダルが、妙に印象に残ったそうです。(寺山修司はいつも特徴的な厚底のサンダルを履いていました)
寺山は治療の甲斐なく、1983年5月4日にこの世を去ります。
唐さんはその1年半後に、本作「ジャガーの眼」の執筆を始められた、とのこと。
多分先述の動画、1985年の『ジャガーの眼』本公演を放映する前に、前座というか視聴者への事前知識みたいな感じで行った対談が、このインタビュー動画なのかなァと推測しますが、それより興味深かったのは、ラストシーンについての話です。
僕がYoutubeで鑑賞した、状況劇場による1985年の初演と、先日鬼子母神で鑑賞した、唐組による2019年の公演では、幕切れは登場人物が巨大なサンダルを押して野外へ去っていく、というものでした。
しかし唐さんは、この動画の中で「最近の再演ではまた終わり方が変わってきた」「僕がサンダルと共に去っていくのではなく、義眼の世界に入っていくという終わり方になった」と語っています。
一体いつ「義眼の世界に入っていく」ラストを目にすることができたんでしょうか?
唐さんご本人が演出された『ジャガーの眼』の公演は、僕の調べた限りでは以下の4つでした。
唐さんはインタビューの中で「最近」と仰っていますから、1995年版や1997年版の公演で「義眼の世界に入っていく」ラストが見られたのかな? と推測しますが、正確には分かりかねます。
貴重な「義眼の世界に入っていく終わり方」を観られた方がいらっしゃいましたら、いつの公演だったのか、情報お待ちしております。
寺山修司『臓器交換序説』との関連
『ジャガーの眼』の執筆のきっかけに寺山の死があったことは先述しましたが、本作品の中には寺山へのオマージュとして、寺山修司の最後の演劇論集『臓器交換序説』からの引用が多数見られます。
『ジャガーの眼』が3人の男に受け継がれたひとつの眼を描いた物語であるのは、この『臓器交換序説』の中で寺山が肉体の移植について言及しているのが根底にあるからと思われます。
1度目の観劇の際には未読だったので、2回目の観劇前にある程度目を通し、あ~この台詞は多分本のここから発想を得たんだろうな~という箇所を色々確認してきました。
まず巨大なサンダルが書割から飛び出てくる幕開けのシーン。
ひと悶着あった後に、田口の歌が始まります。
♪ この路地に来て思い出す
貴方の好きな ひとつの言葉
死ぬのは みな他人なら
生きるのも みな他人
死ぬのは みな他人
愛するのも みな他人
のぞくのは僕ばかり
そこに見てはいけない
何があるのか……
(耳コピなので若干の歌詞違いはご容赦)
この歌の「死ぬのはみな他人」というフレーズは、フランスの画家・マルセルデュシャンの墓碑に刻まれている言葉で、寺山修司も気に入ってよく口にしていたそうです。
『臓器交換序説』では、第1章第1節「肉体言語の私性」にて、「個」を規定するむつかしさを語る上で同フレーズが引き合いに出されています。*1
唐さんは寺山からの孫引きのような形で、この言葉を『ジャガーの眼』に組み込んだのでしょうね。
劇中で交換されようとする臓器は「ジャガーの眼」だけではありません。
少年・ヤスヒロもまた、瀕死の飼い犬・チロに自分の心臓を移植することで、チロを生き返らせようとします。
そして当の本人は「犬の心臓をもった労働者になる!」「労働者になって北朝鮮を革命する!」と豪語するワケですが、この「犬の心臓をもった労働者」というフレーズは、表題にもなっている第1章第2節「臓器交換序説」からの引用です。
ここで寺山は、臓器移植によって生まれた「犬の心臓をもった労働者」と「人間の心臓をもった犬」を主人公としたロシアのブルガーコフの小説を紹介しています。
少年・ヤスヒロが革命すると叫ぶのが何故北朝鮮なのかは分かりませんが、まァお隣の国ですし、同じ共産国ならロシアより北朝鮮のほうが唐さんにとって身近だったのかな~とか。
ちなみに同節にて、寺山はD・M・トマスの「適合する臓器提供者を求めて」という詩を紹介しています。
私は見ていた おのれの 肉体が
歓喜につつまれ 運ばれていくのを
私には見えた それは赤かった まるで
まだ昇りきらず
郊外の家並みにかかる太陽のように そんな家の一軒で
私は生きて暮らしていた (略)*2
これも『ジャガーの眼』の中で、ほとんどそのまま、くるみが歌う劇中歌になっています。
あからさまな引用はここまでで、多分唐さんは『臓器交換序説』を一冊まるまる読んだというよりは、同名の第1章第2節しか読んでないんじゃないかな、という印象です。久保井さんもチラシに寄せた「ジャガーの眼再考」という文章の中で、同じことを書いてらっしゃいますね。
追記(2019.6.1)
ツイッターのフォロワーさんから、「少年・ヤスヒロが革命すると言ったのは何故北朝鮮だったのか?」という疑問に関して情報をいただいたので追記しておきます。
『ジャガーの眼』をテキストで確認すると、なんとヤスヒロは「北朝鮮」ではなく「ソ連」を革命すると言っているらしい。
今うちにある戯曲を確認したら「ソ連」でした!ジャガーの眼が初演された1985年はソ連が崩壊する4.5年前です。 pic.twitter.com/gACy5X78VP
— 伏見区のサブカル金魚bot (@64goldfish) 2019年5月31日
『ジャガーの眼』が初演された1985年は、ソ連が崩壊する4、5年前だったそうで。
やはり革命の機運が高まっていたという意味でも、犬の心臓をつけた労働者~などのくだりがすべてロシアのブルガーコフの小説からの引用だったという意味でも、「ソ連」の方がしっくりきますね。
とすれば、「ソ連」が「北朝鮮」に変わったのは、初演以降の公演で唐さんが書き直した、あるいは今回の公演で久保井研さんが改変したと考えられます。
情報ありがとうございます!
寺山を通過して唐に至る
ここからはあんまり公演内容とは関係ない蛇足です。
観劇後、同行者と「唐さんと寺山の作品は何が違うか」という話をしていました。
唐さんの作品はよく「ウルトラセンチメンタル」と形容されたりしていますが、それに対して言うなれば、寺山作品にあるのはもっと鬱屈としたルサンチマンと形容すべきでしょうか?
寺山の作品には、家庭だとか、街だとか、社会的な囲いにとらわれている現状から、逃避とは言わないまでも如何に心理的に自由になるか。そうした葛藤や試行錯誤がにじみ出ているように感じます。
けれど唐さんの作品には、そんな社会的コミュニティからももはや見放され、とらわれるどころか取りこぼされてしまったような人たちが数多く登場します。
唐十郎の視線の先にはいつだって、そうした日陰や底辺を生きる人やモノへの哀と愛がある、と僕は勝手に信じています。
かつてとある美術評論家の方と個人的なお話をしていた時に、「寺山はあくまで通過点だ」と教えられたことがありました。
その言葉の意味をよく解さないままもう数年経ってしまったのですが、最近それがようやく自身の体験として分かってきたような。
多くの人は、思春期など一定の時期に、学校や家庭といった社会的な囲いを疎ましく感じたことがあるのではないでしょうか。
寺山作品は、そんな時にこそ寄り添ってくれる気がします。青春扇動家とも形容された寺山の作品には、ルサンチマンを胸にたぎらせた青少年のバイブルとなりうる、ユーモアに溢れた力があります。
けれど人は成長するにつれ、遅かれ早かれ、多かれ少なかれ、ある程度自身を囲う社会的なしがらみとの折り合いを付けるようになります。すると寺山の作品は効力を失い、青春の革命児としての役目を終えてしまいます。
その時に一方で輝いてくるのが、唐作品なんじゃないかなァ、と。
社会に巣立った後、皆がそうだとは言いませんが、一定数の人は、いつ社会から転落するか分からない不安や、自分が社会の一部になりきれていないという孤独感を消しきれないままでいるのではないか。
唐作品は、そんな時にこそ寄り添ってくれる気がします。唐作品には、そんな寂寥の風に吹かれた人たちへの、尽きぬまなざしがあります。
もちろん全く違う嗜好で寺山が好きだ、唐が好きだ、という方もあまたいらっしゃるかと思いますが……。
少なくとも僕はそうした過程を辿って寺山から唐へ傾倒していったので、かつて言われた「寺山はあくまで通過点だ」という意味をなるほどなァ、と振り返ったり、すれば寺山を卒業した僕はもうルサンチマンにたぎる青春すらも卒業しつつあるのだなァ、とちょっぴりセンチになったり。
帰りの副都心電車の中で、そんなことを思った夜でありました。
おわりに
ずらずらと書き連ねてしまいましたが、つまるところはむっちゃ面白かったです。
『ジャガーの眼』は6月から花園神社に再び舞い戻った後、今回はなんと宮城県、長野県にも公演に行くそうなので、みんなゼヒ観て。
演劇不況のこの時代、テント芝居なんていつまであるか分からないです本当に。
演劇を観るというより、未知の体験に出会うという意味で。
紅色にそびえ立つロマンを、貴方にも。