さかしま劇場

つれづれグランギニョル

処女夢

 平成30年 第35回 織田作之助青春賞 第3次審査通過作品です。

 

 

 

 

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 僕の世界史の担任は、金縁眼鏡の奥の黒しじみのような目を一向にまばたきさせない、首の短い女だった。

 彼女は丸い人差し指を唾で湿らせ印刷物を配る。誰も立候補しない自治会の役員をやらされているかのようなくたびれた面持ちで、抑揚なく教科書を読み上げる。僕は彼女ほど、世界の広大な歴史をまるで世間話のように語る女を知らない。

 厚い眼鏡の下から教室の中を見回すと、彼女はこう口を開いた。

「こうしてビクトリア女王大英帝国を築いていったのであります」

 しかしそう述べあげる間、彼女の頭の中では、十九世紀大英帝国を覆う輝かしき栄光も、排煙に煤けた都市を蝕む頽廃も、いかなる色彩も帯びていないと思われる。

 僕は教師の乾いた声が鼓膜の上にざらつくのが嫌で、印字の黒インキに没頭しようと、机上に開いた教科書をズラズラ先読みする。

 当時の英国は対外では清や露西亜と刃をまじえ、国内では二大政党が火花を散らしていたという。教壇の上の教師は、そんな波瀾もご近所争い程度にしか感じていないに違いない。第一回倫敦万国博における、水晶宮の内に陽光受けてきらめく先進的工業品も、異国情緒あふれる東西南北の美術品たちも、彼女にとっては八百屋に並ぶひなびた青果たちと大差ない。ビクトリア女王が英国に長く君臨したという史実も、彼女の口から語られれば、ただのかかあ天下永続節であった。

 教師はシミの浮いた手で、黒板に筆圧の高い字を書き並べる。ノートを取る気力もない僕は、その年号ばかりを記す白い文字をボンヤリ見上げる。そうして自然と、教師の背中を眺め見る。

 自己引力を失った胴体が、スーツにみっちりと横ジワを作っている。

 ジャケットは垂れた乳房の形にゆがみ、大きく起伏している。

 春も半ばをすぎた学ランだらけの教室は、人の体臭がかすかにたち始めるような、蒸された空気でいっぱいであった。

 僕は口を引き結んで、目線を机の下へヅイと落とす。

 膝の上に置かれた、すこし大きい学ランの袖から、自分の手がニョッキリと生えているのが見えた。十二分な熱をまとうそれは少し汗ばみ、甲は明るくつやつやしい。

 僕はその手の甲から芽吹くようにして生え揃う指々の、先端に行儀よく並んだ爪たちに魅惑を覚えた。形はどことなく武骨だが、桜貝のような、可憐な色をしていた。

 人差し指から薬指までを、親指に向けてきゅっと貝合わせしてみると、右と左、染井吉野がふたつ花咲く。唇をすぼめ息をふきかけてみると、その花の合間を、あやしげな彼岸西風ひがんにしが通り過ぎてゆくような感触があった。

 今度は机の下で、おそるおそる両手を開いてみる。爪は扇をひろげるようにして流れるような曲線を描き、僕の高まる鼓動が宙にしめす五線譜に、神聖な意思をもって配置された。それはもっともな声部をなにより正しくあらわした、聖歌の純潔なネウマ音符のようであった。

 オルガンの音が聞こえてきそうな気がした。丸みを帯びた、重く、かすかに甘い琴音。

 僕は右の親指の爪を、そっと口に運んでみた。アヴェ・マリア

 柔らかなそれを、上下の前歯で触れるようにして挟む。サンタ・マリア。

 そして歯をめり込ませ、強くひと噛みする。アーメン。

 僕は爪をくわえながらそっと目線をあげる。教師はまだ乳房をゆらして、黒板になにかをぶつけるかのよう、白墨を散らしている。

 そしてそんな教師の背後に、セーラーを着た少女が立っていることに、僕はふと気が付く。

 少女は教師のぶ厚い背中を見つめており、僕に背中しか向けなかった。彼女の短く切りそろえた黒髪の下から、やわらかそうな、蝋のように白いうなじがのぞいていた。

 僕は爪をカチカチと噛みながら彼女のうなじを見つめていたが、口から親指を離してみれば、少女は讃美歌の残響のように、おぼろに霞んで消えてしまった。

 僕は唾で湿った指を、そのままゆっくりとポケットにしまった。

 教師がこちらに向き直って、淡つかな調子で大英帝国の噂話に舌を転がす。口角に唾の泡が溜まっている。けばけばしい口紅の端が、肌の皺に沿って少しにじんでいた。町はずれで客を待つ、娼婦の切情のようだった。

 アーメン。

 

 

桜の花びらは砂地に野垂れ、夜露に腐る。彼らが折り重なって命尽きた無名墓地たるグラウンドに、春の日差しは容赦なく、授業に駆り出された僕たちの頬に追悼の涙のような汗も走る。

最近、体操服の胸周りが窮屈になった。半ズボンも腿のあたりが締め付けられたような感じがする。風が通らないがため汗が乾かず、僕は不快感にイライラと、右の人差し指の爪を噛んでいる。

「それじゃあ、四列に並んで」

教師の指示で、僕たちはだらだらと隊列を組んだ。目前には、グラウンドの中で一等大きい桜の木に向かって、真っ直ぐな白線が伸びている。そしてその先に、セーラーの少女がこちらに背を向けて立っているのが僕にははっきりと見える。

教師のホイッスルで生徒らがスタートラインから躍り出た。彼らが百メートルを走りきる瞬間に一斉に少女に飛びかかるような気がして、僕は思わず濡れた人差し指を口から離した。

 四人の走者は、霞がかってゆく少女の両脇を何とはなしに駆け抜けて行った。

 僕は胸を撫でおろして人差し指を口に含み直す。足元から砂を散らすようにして、茶けた墓地から湧き上がるようにして、かの少女が再びゴール地点に立ち現れる。

 僕は息をひそめてスタートラインに立った。

 ホイッスルのけたたましい音で、僕ははじかれたように消石灰のラインの先へと飛び出す。噛んでいた指を勢いよく歯の間から引き抜いたために爪が裂け、傷口に強い向かい風が染みる。

 僕は徐々に消えてゆく少女に追いつこうと息を荒げ、指先からにじみ出る血を汗と共に振り飛ばして右手を千切れんばかりに伸ばした。が、まさに指先が触れるかと思った束の間、少女は巻き上がる風と共に消えてしまった。

 凝固した血の色のような腐った桜の花びらが、少女の跡に数枚舞った。

 肩を上下させて膝に手をつく僕の目の前には、少女が見つめていた桜の大木がぼんやりと立っていた。老いた寸胴の木にはもはや花もなく、痩せた枝先に気持ちばかりの青葉を点々と付けているにすぎない。

 痛む人差し指の爪を噛むことは、僕にはもうできなかった。僕は左手で額の汗を吹きながら、はたして今年、この老木に桜が咲いていただろうかと考えた。何も覚えていなかった。もしもう花も咲かない木だったならば、こんな桜の花弁がみっしりと敷き詰められたグラウンドの中で、老木はわずかな青葉をせめての着飾りとして立っているのだろうか。

 この木が枯れ朽ちる日もそう遠くない、と僕は思った。春のだだっ広い墓地に、整わない息のまま、「アーメン」と呟いた。

 

 

 ある時は、少女はグラウンドを臨む格子窓の外を見やっていた。

 ある時は、廊下の赤錆びた消火器の横に立っていた。

 またある時は、屋上に至る階段の隅に、その先になにかを待ち望んでいるかのようたたずんでいた。

 そして少女はいつも僕に背中を向けていた。ブラウスに包まれた華奢な背中は微動だにしない。セーラーの紺の襟から生えるむき出しのうなじは、常にほんのりと発光しているようだった。純白のうなじは極限の細さと歪線を描き、たよりなげでいながら、しかしそれは小さな天体を支えるとても重要なものであることを直感させた。

 僕はグラウンドでの出来事があって以降、爪を噛みながら少女を遠目に眺めている。

 学ランにむせ返る春の校舎に、僕にしか見えぬ少女の姿は、花の咲くよう映る。

 

 

 右中指の爪を滅多に噛み切ってしまったため、今日は右薬指の爪を口にふくむことにした。

 ノートも取らず、教科書の頁もめくらぬまま、僕はその日もセーラー服の少女を見つめていた。歯の隙間で爪をすり減らしながら。

 その日、少女は黒板に連なる数式を目で追うようなそぶりも見せず、シン、と教壇の傍に佇んでいた。

 僕が延々と爪を噛んでいるので、隣席の男子生徒が、不安そうにこちらへ視線を寄越してくる。教師も先ほどから時折チラと目を合わせてくる。

 なんて目つきの悪い数学教師だ、と僕は眉根を寄せ女を睨み返す。痩せて目だけが飛び出した野良猫のようだ。子猫を産むにもまずは残飯をあさらねば体がもたないだろう、しかしそんなことするものかという背筋で、彼女は黒板に数字を連ねる。素早く走り書きされた平方根が、虚勢を張って掲げられた猫の尻尾のようだった。

 僕は口の端から涎がこぼれ落ちたのもかまわずに、うまい食料にありつく齧歯類のごとくさらに爪を激しく噛み砕いていった。

 すり減った爪をさらに深くくわえこんだ時だった。

 突如、メリッ、という不快な感触が薬指の芯に響いた。

 僕は思わず唾にまみれた指を口から引き離した。見れば、爪がちょうど半分のところで折れ曲がり、覆いが剥がされたやわらかい部分から血があふれ出ていた。

「先生ッ!」

 たまりかねた隣席のクラスメイトが手を挙げて、黒板に蚯蚓のような連立方程式を並べる教師を振り向かせた。

「彼を保健室に連れてゆきます!」

 そうして僕はしたたる血で制服の前を汚しながら、その男子生徒によって保健室に連行されたのであった。

 左腕を引っ張られている間に右の小指の爪を噛めば、セーラー服の少女は再び何とはなしに僕の視界に現れた。

 今度の彼女は、廊下の窓の向こうに立っていた。中庭にある焼却炉に顔を向けながら、そこから立ち上がる煙を見ているようだった。塵芥と一緒に、給食の残りも燃やされているのだろうか。数学の教師の胃袋も、僕の腹の内も満たさないそれを。

 子猫の血肉にもなれなかった、黒煙に舞うかつて灰でなかったものたちへ。アーメン。

 

 

「爪を噛む癖が治らない?」

 僕を連行したクラスメイトによって事情を聞いた保健室の先生は、僕の真っ赤になった右の指たちを見て、戸惑いを隠せぬ声で言った。

「じゃあこの薬指の爪も、さっき自分の歯でへし折ったって言うのですか?」

 無言でいる僕の隣で、クラスメイトは「はい」などと声高に答えて、

「ともかく彼は、爪さえあれば噛むという具合なので、すべての指に包帯をまいてやったって良いくらいです。それでは先生、よろしく頼みます。僕は授業に戻りますので」

 言い終わるやクラスメイトは僕にツイと一瞥をやり、早足で保健室を出ていってしまった。

 僕は右の小指をカリカリとしつつ、さほど懇意でもなかった彼の親切を不思議に思いながら、その黒い後ろ姿を見送った。

「アッ貴方、また爪を噛んで!」

 腕を引っ掴まれて、口から小指が引き抜かれる。先生が掴む僕の右手から唇まで、透明な唾液が糸を引いていた。

「ほんとうに無意識の内に噛んでるって言うんですか、貴方は」

 教師が僕の目を不躾にのぞき込んでくるので、僕は彼女の背後に視線を逸らした。セーラー服の少女が保健室から出ていき、姿を消した瞬間が見えた。

 先生は大きな医療箱から消毒液を取り出しつつ話す。

「爪を噛むっていうのはね、思い通りにならないことへの苛々だとか、もどかしさだとか、そういうものが体現した行為なのですよ。幼い子がよくやる動作ですけど、心と体が不安定な貴方みたいな時期は、そういう幼児期の行動というのが、突如ぶり返してくることがあるの。だから心配しなくていいのですよ。きっとそのうち収まります」

 知ったような口を利く女だと思った。僕は右の指にガーゼを当てられながら、左の小指の爪をカリカリと噛む。

 幼児期のぶり返しであるものか。セーラー服の少女が、いつもあんなにも鮮烈に、あでやかに出現しているというのに。かのごとき美しい幻影を、白痴の幼児への逆行をもって僕が見られるわけがない。これはすべて、僕がついにその季節に至ったと言う暗示なのだ。

 一度消えた少女は今、保健室のベッドの脇に再び姿を現している。その後ろ姿は黙する百合のごとく、病床に伏す姿なき患者に添えられた、見舞いの花のようでもあった。

 僕は先生に叱られて左小指を口から引き抜かれたが、その手を振り払って今度は懲りずに左薬指をくわえこめば、

「全部の指に包帯をまいてしまいますよ!」

 と呆れた顔で、彼女はひとまず僕の右手の手当てを先に終わらそうと手早になった。

 まるで人の母親のような顔をする横柄な女だと僕は思った。その白衣の下には、若い女と熟年の女のどちらにもなりきれぬ、朽葉色の洋服をまとっているのが僕には見て取れた。

 先生の磨かれていない結婚指輪が、鈍い反射光を僕の指先に飛ばしてきそうであったので、僕は気を悪くして、手当されている以外の右の指をきゅきゅっと丸めた。

「貴方、何か最近、失恋でもしたの?」

 一通りの恋は経験したとでもいう風に、美人でもない三十路の女は僕に尋ねる。

「勉強がうまくいかないとか? 友人関係でこじれましたか?」

「そう言うワケではありません」

 僕は左手の爪を噛んでセーラー少女に目を向けながら、ボツボツと答える。

「それより先生、先ほどの生徒は、よく保健室に来るのですか」

「あァ、貴方を連れてきてくれた彼ですか? そうねェ、よく、というほどでもないけれど、まァ彼は保健委員ですから。医療品の管理だとか、シーツやタオルの洗濯だとか、気持ち良く手伝ってくれますよ」

「保健委員は、各クラスに一人ずついたはずですね」

「そうね。けれど、彼はその中でも一番のお手伝いさんよ」

 瞬間、僕は左の薬指の爪をガリッと噛みちぎった。

 一緒に皮膚が引き千切られ、裂けた部位からじわりと血があふれだした。

「何をしているの!」

 先生の悲鳴。僕は一言も発さず、セーラー服の少女を見つめたまま。

「いけません、いけません。アッ、ホラ、また別の爪をくわえる! いけませんよほんとうに! もう、すべての指に包帯を巻きますからね」

 ねじりあげるようにして、僕は先生に両腕を抑え込まれそうになる。抵抗を試みた僕は、彼女の首筋に二、三のシミを見つけ、心臓をわしづかまれた心地になる。

 いけない、包帯を巻かれてしまっては。

 少女のために、すべての爪を剥ぎ取るまでは。

 僕はウオゥッと声をあげて、先生の腕を振り払うと、その首根っこに血で汚れた両手をくいこませた。途端に僕は、先生の身長が自分より低く、また彼女の力なぞ僕に到底及ばないことを悟った。

 声も出せずヒュウと息をするだけの先生を、僕は引きずって保健室のベッドに放り投げた。そのまま白衣をめくり取り、金切り声をあげて暴れる彼女を殴り、保護色のやるせない服を裂いてみれば、そこには

「ア……」

 花も恥じらう乙女のような、申し訳程度にフリルのついた、白い下着。

 僕はその時、ほんとうのせつなさというものを、理解した気がしたのであった。

 先生から腕を離した僕は、黙ったまま、ベッドに腰をかけた。左中指の爪を噛みはじめた僕の後ろで、先生は茫然として、半裸のまま動かなくなっていた。

 セーラー服の少女は保健室の戸口に移動していて、こちらに後ろ姿を見せていた。

 僕が爪を噛み切ると、彼女はそっと、保健室を出ていった。

 

 

 たまたま保健室にやって来た生徒によって、僕の行為は教師陣に知れ渡り、僕はしばらく停学をくらうことになった。

 その時にはすでに全ての爪が噛み千切られていた僕の指には、かの保健室の先生によって、これでもかというくらい頑丈に包帯が巻かれてしまった。その手当をしている間、彼女は終始無言であった。

 先生は包帯をすべて巻き終わったあとに、一瞬だけ僕の目を見返した。その瞳の淵は意外なくらいに潤んでいて、僕はハッとなって思わず言葉を発しそうになった。

 それは僕が触れられなかった、街はずれの暗闇から手招きするような、随分と大胆なあやしさであった。

 そのあと先生は学校を去ったらしく、以降の消息は知れない。

 彼女にまかれた包帯は、僕にはどうしてもほどけなかった。

 

 

 かのセーラー服の少女には、停学になってからというもの会えないでいた。

 包帯のまかれた指はどうにも痒く、僕は自宅で一週間ほど、何とかその疼きを忘れようと努力したけれど、自宅では暇を弄ぶばかり、近所に遊びに行くような場所もなし。まさか学校にも向かえずに、僕は自室の畳を、包帯で芋虫のようになった指でガリガリと掻き続けていた。

 腹の内に鬱積してゆくような、肺に満ち足り呼吸をとめてしまうような、気管支を腐らせ朝の新鮮な冷気を忘れさせてしまうような、この増殖し蔓延する体内の灰褐色のわだかまり

 それはこのままでは、はらわたを食い破って、邪悪な蛾へと羽化しそうな気配さえした。その蛾には僕が取り払ったはずの、桃色の暴力的な爪が生えている。

 僕はうめきをあげて、不器用な動きしか出来ぬ指を操りながら、血で汚れたままの学ランに袖を通した。その黒い鎧をまとえば、自然と無表情もつとめやすくなった。

 僕は学帽を深くかぶり、薄暮に難破船のごとく沈む街に繰り出した。歩幅は大きく、それは追われる者の速度であった。口を引き結んで、目指すは迷わぬ、我が学び舎。

 セーラー服のあの少女に、やはり会わねばならぬ。

 

 

 外で部活動にいそしむ生徒の声も反響してこない、ひっそりとした夕刻の校舎であった。

 裏門をよじ登りこっそり中へと忍び込んだ僕は、廊下の中央に、等間隔を置いて点々と、白い正方形の包みが並んでいるのを見た。

 僕はそれを家の便所で見たことがあった。いつか母が「もういらないの」とつぶやいて捨てた、生理ナプキンであった。僕はその時の母ほど、消え入りそうな横顔をした女を知らない。

 僕はナプキンをたどって、包帯のまかれた指を口元に持っていきながら、無人の廊下に革靴を鳴らしカツカツと進んでいった。

 初めきっちりと封がなされていたナプキンは、数を追うごとに少しずつ様子を変化させていった。テープが剥がされ、外包が取り払われ、三ツ折りにされたナプキンが、数を追うごとに開かれてゆく。

 それはアニメーションの透明なセルが、ひとつひとつ並べられているかのよう、じれったく、慎重なエンターテイメントであった。

 ナプキンの列をたどるうちに、ふいに僕はあれだけほどけなかった指の包帯がゆるんでゆくのを感じた。包帯はスルスルとほどけ、長い尾を引いて肩越しに流れていった。それは僕の背後で、生理ナプキンを正確になぞっているだろうことが想像された。

 僕は初め、螺旋を描いて解けてゆく包帯を感じるだけであったが、そのうち自分の歯でも包帯を引き始めた。ほどいてもほどいても、それはまだ指にまとわっている。

 獣のように口で両手の包帯を解きながら、しかし僕の目はしっかりと生理ナプキンを追い続ける。それは校舎奥にある小さな美術室まで、延々と続いていた。

 開かれたナプキンには、やがでうっすらとしたシミが付くようになった。それは、体液で汚れた僕の包帯とよく似た色をしていた。

 ナプキンの列が美術室の入り口まで到着した時、シミは確かに赤黒い塊へと変化していた。その瞬間、僕は血まみれになった包帯の最後の一巻きを解ききった。

 包帯は廊下のはるか奥先の暗闇へと、ゆうるりと吸い込まれていった。

 僕は黙って、爪のない手で美術室の引き戸を開けた。授業の途中で放り出されたような部屋の戸に、鍵はかかっていなかった。

 音もなく中に足を踏み入れると、酸素を腐食するような、濃厚な絵の具のにおいが鼻をつく。

 つきあたり目の前には、描きかけのキャンバス。小鳥のような口とゆたかな髪、小ぶりな乳房にふくよかな肩を持つ、ギリシア女性の胸像のスケッチ。窓から差し込む弱弱しい陽が逆光となって、繊細なはずの鉛筆のタッチを太く濃く見せる。

 視線を教室の奥まで放てば、クピドをはべらし鏡を見つめるアフロディーテ。狩りに出かける前の、弓矢を携え亜麻布を肩掛けたアルテミス。七色の光背を抱き宣託を告げるイーリス。一面が若い女神をえがいた絵画の肌色に染まっている。

 そのまま目を横に滑らせると、廊下側の窓の前には、女性をかたどった彫刻が林のごとく乱立していた。僕と同身長のものから、手のひらに載るような大きさまで、すべらかな石膏から、荒削りの木材まで、写実の限りを尽くした女から、抽象に解体された女まで。数えきれないほどの彼女らは、互いの腕を絡ませ、乳房を並べ、腰をすり寄せて、沈黙のままにひしめいている。

 そうして、部屋の中央まで歩みながらぐるり美術室を見回した僕は、黒板の方へと、ゆっくり体ごと向きなおった。

 セーラー服の少女が、こちらに背中を向けて、たたずんでいた。

 僕は黙って、そばに用意された三ツ足の椅子に腰を下ろした。

 薄暗い美術室の中で、少女の白いうなじは、真珠のようなほのかな燐光を見せている。産毛のふんわり乗った、やわらかそうな絹肌に、僕は喉仏を上下させた。

 徐々に明度を失う教室。窓の外は燃えるような朱から、ひそやかな藍へと沈んでゆく。

 僕の左右と背後を取り囲む女たちの目線が、甘くなまめかしいものから、鋭くいたずらなものに、そして険しく凶悪なものへと変わってゆくのを、僕はピリピリと肌で感じていた。この魔性のパノプティコンにおける真の監視人とは、中央にいる僕ではなく、これらおそろしい女たちであった。

 しかしけっして畏怖することはなかった。僕はもう、爪を持たないのだから。赤くただれた、やわらかなの指先は、僕の膝の上できちんと揃えられていた。その手はもうどんな女をも傷つけ切り裂くことはないだろう。

 僕は、磔刑を待つ静粛な罪人であった。それと同時に、今まさに神あるいは悪魔からの啓示を受け取ろうとする、寡黙で敬虔な使徒であった。

 オルガンの音が聞こえてきそうな気がした。丸みを帯びた、重く、かすかに甘いあの音。

 僕は天の腕に導かれるかのよう背筋を伸ばして、素朴な椅子の上で、じっとその時を待った。

 少女が、口を開いた。

「待っていたわ」

 そうして彼女は、セーラー服にシワひとつ寄せず、音も立てずに、おもむろにこちらへ振り返ったのだった。

 アヴェ・マリア

 サンタ・マリア。

 僕もゆっくりと椅子から立ち上がると、爪のない両手を大きく開いてみせた。ちょうど純真な雛鳥に生え揃ったたばかりの、清白の羽をひろげるようにして。

 アーメン。

 

 

 

   了