東方妙喜王楽土
平成30年 第35回織田作之助青春賞 第4次審査通過作品です。
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その赤錆びは血飛沫の跡かと見まがう瓦礫の丘陵。高床のプラットホームを支える鉄骨に寄りかかるようにして生える、色の悪い痩せた
列車の熱風に洗われる彼らの声に誘われて、点字盤に這いつくばってホームの裏を覗いて見れば、たしかにそこには極彩の野鳥と浅黒い肌をした人民の住まう王国がある。
その日、彼は校章の剥がれた革鞄を持って、転がるビー玉のように駅の人混みから踊り出たのだった。いつも通学路をそぞろ歩いている河原鳩の真似してちょいと首を伸ばし、ホームから身を乗り出してみせる。
そしてたわいもない妄想の果てにいつ何時もそびえ立つあの王国の扉が、こちらへ閃光を放ちながら、観音開きになるを見たのだった。
目をしばたたかせて顔を上げれば、彼は河原と森の境に寝倒れていた。
頭上に太陽が巨大な空白のように輝いて、河原の赤土を焦がしている。
どこかで鳥が三度鳴く声がして、彼はむくりと身を起こす。
彼は立ち上がるついでに肌や衣服についた土を払おうとしたが、自身の体を見下ろして、そこに強い力で引き裂かれたようなぼろ布しか引っ掛かっていないことに気が付いた。頬についた砂を払おうと腕を上げれば、肩周りの布が滑り落ちてしまう。彼は掃除もそこそこに、布の端々を結び合わせると、裸足で子供たちの方に歩み寄った。
「何してるの」
声をかけても、子供は顔も上げない。人が手を合わせたような奇妙な形をした骨を、赤土の上に積んで夢中になって遊んでいる。三つ積んだところで、手元の骨がなくなってしまった。すると子供は、川の水で半分ぬかるんだ赤土のあちこちを掘り返して、同じような骨を見つけてくる。それを塔の上に積むと、歯のない口を歪めて嬉しそうにひとり笑いした。
河原のあちこちにしゃがんでいる子供たちが、皆一様にその遊びをしていた。土を掘り返すむくんだ小さな手には、血がにじんでいる。河原の赤土はますます赤く染まる。
彼はひとり遊びをする子供の隣で、川の向こうに目を凝らしてみた。川幅は広く、向こう岸は霞んでおぼろげにしか確認できない。黒い海のような森と、そこから頭一つ突き出た塔のような影がいくつか見えた。塔は蓮の蕾のような曲線を描いて毅然と碧空にシルエットを映し、神聖な祠堂のようにも見受けられる。遠い景色は蜃気楼のように波打ち揺れて、川の向こうには本当は何も存在していないかのようにも思えてくる。
子供らの薄ら笑いを耳にしながら向こう岸を眺めていると、川の水平線にぽつりと葡萄のような黒点が浮かんだ。それは徐々に膨らんで大きくなり、小舟の姿かたちをとった。長い櫂を前後に動かして、舟はこちらへとやってくる。船べりに片足をかけて櫂を操るのは、浅黒い肌をした少年であった。腰に結わえた綿布は夕日のような緋色、つややかな裸の上半身を白昼の陽光が縁取る。
少年は岸近くまで舟を寄せると、
「乗るのか」
と彼に向かって大声で叫んだ。南風にふくらむ帆のような張りのある声だった。
彼は河原にいても成す術もないため、大きくうなずいてみせたが、
「銀貨六枚だ」
と少年に返されて、自分の穴だらけのズボンのポケットに手を突っ込んでみる。ポケットは破けて、硬貨の一枚も入っていない。
「持っていないんだ」
彼が言うと、少年は川の浅瀬へと飛び降りて、河原の赤土の上に舟を引き上げてしまった。
「今来たばかりなのか」
長い睫毛の下で異様に光る黒真珠のような目をチラと彼に寄越して、少年はそう尋ねた。
彼がこくりとうなずくと、
「珍しいな、こんな時間に」
と少年はつぶやいく。
「名前は、何て言うんだ」
そう聞かれて気が付いた、彼は自分の名前が思い出せない。
「分からない、忘れてしまったみたいだ」
彼の戸惑いに、少年は「ふぅん」とだけ返した。
「それにしてもお前、ひどい服だな。なぁ、あっちに家が見えるだろう」
少年は川の上流の方向を指さした。河原の木々がまばらに生えているそばに、茅葺きの砂色の小屋が立っているのが目に留まった。
「あそこに俺の母さんがいる。母さんから服を貰いな」
「君の名前は、何て言うの」
「ウパティッサだ」
彼は礼を言うと、ウパティッサの母がいるという小さな家へと向かった。
流木を組んだ物干しが、小屋を囲むように幾列にも立てられている。そこに
たもとに一人の女がしゃがみこんでいた。大きな鉄の鍋を抱えて、黒々と波打つ中身を木棒でつっついている。
彼の足音で顔を上げた女は、干された布の陰で一瞬困惑したような表情を浮かべた。
「貴女に服を貰えと、ウパティッサに勧められて来ました」
彼はおずおずと口を開く。女は「そう」とこわばった笑みを浮かべて、「名前は」と尋ねた。「分からないんです、忘れてしまった」
女は彼に、ぼろ切れの服を脱いで川で水浴びをするよう指示した。彼が川に浸かっている間、女は鍋の中から夜よりも暗い布を引き上げて、物干し竿の空いているところに器用に渡し掛けた。そしてまた鉄鍋の中に新しい布を入れ、木の棒でかき混ぜ叩く。川から上がった彼は、女の隣に胡坐をかいて、震える
「青は
女は布を染めているのだと説明をしてくれた。彼女の手元から鉄をごりごりとこする音がして、彼は肩を小さく縮こめる。そうして女が木の棒で鍋の底を強く突いた途端、彼は飛び上がった猫のような素っ頓狂な声を出してしまった。
「恐れることはありません。私は貴方をぶつ女ではありません」
女のほほ笑みに、彼は恐る恐る胡坐を組み直す。女の腕が自分に向かって振り降ろされる瞬間を警戒して、彼はずっと女を監視していたのであった。それは否応なしに物心ついた時より身に付いた、彼の癖であった。
天球に穴を開けていた白い太陽が傾いて、大河の向こう岸の森が火炎に包まれる夕刻、ウパティッサが銀貨の入った麻袋を鳴らしながら小屋へと帰って来る。
作業から立ち上がった女は、
「母さん。彼、昼間に河原へやって来たんだ」
ウパティッサは女の首元に口づけしてから、そう呟いた。女は一瞬体を震わせたかのように見えたが、すぐに先ほど竿に干し掛けた真っ黒の布を手にすると、彼の方へと手招きをした。
裸の彼に優しい手つきで布を巻いてやりながら、女は言った。
「この国の人は皆、夜に生まれ落ちます。そして旅人はこの国に皆、夜に訪れます。けれど貴方は珍しく太陽が昇っている間にいらしたから、名前は『ソリヤ』です。意味は、『太陽』」
服と名を与えられた彼――ソリヤは、ハッと女の顔を見た。ウパティッサが薪に火をつけ、闇夜に沈みつつあった女の顔をぱっと照らす。女はウパティッサによく似た黒真珠のような両の目に揺らめく焚火を映して、ソリヤを見上げた。
「私の名前は、サーリー」
家の傍より丘へと広がる森一面に、野鳥が鋭く三度鳴く声が響き渡った。
沈黙の旅人らは、サーリーが染めた布を纏って、ウパティッサが小舟を停めた方へと去っていった。
「皆、明日には舟に乗せてもらえるのか」
ソリヤがひとりごつと、ウパティッサは彼をきっと睨んで、
「当たり前だ。夜に来た者だけが川を渡って、王城で朝陽を拝めるんだ」
と吐き捨てた。王城とは、向こう岸に垣間見たあの天突くような祠堂のある場所のことかとソリヤは思ったが、とても聞ける雰囲気でもなく、彼はサーリーに促されるまま小屋の中へと入って行った。
茉莉の花綴りが結わえられた葦の
サーリーは翡翠色に煌めく孔雀の羽でソリヤをゆるりと仰いでくれた。ひと仰ぎするごとに、ソリヤの体は吐息のように軽くなり、黒布の衣服はまどろみのように重く体に纏わりついた。
「夢みたいだ」
ソリヤが言うと、
「そうね、これは夢です」
とサーリーは言う。
「僕、ずっとこうして眠れることを夢見ていました。これからもこうして寝かしつけてくれますか、サーリー」
「貴方はもう眠っているのだから、寝かしつけることはできません」
「それなら、これからもずっとこうして僕を抱いていてほしい」
「ソリヤ、夢を恋しがってはいけません。貴方は眠りにつく前に、そう強く恋うるべきでした」
ソリヤは急に羽扇子の微風にすらかき消されてしまいそうな気がして、サーリーの手首を掴み、
「分かったよ、もう仰がないで」
と小さく言い放った。
ソリヤは居心地が悪くなり、ひとり小屋の外に出てみれば、幾ばくの時が急流のごとく流れ去ったか、すでに空は泣き出しそうな淡藤色に染まり始め、ウパティッサが小さく燻る薪の前で、
ウパティッサが卵を片手に取り、そっと音もなく口づけをする。殻の中から
ソリヤの視線に気が付いたウパティッサは、
「あの鳥、誰かの母になるんだ」
と手のひらに残された薄い卵の殻を払いながら言った。卵の殻は砂金の煌めきを放って、やわらかな灰のように風に巻かれていった。
「サーリーもこうして卵から生まれたの?」
「そうだよ」
「じゃあ君は、ウパティッサは誰から生まれたんだ?」
ウパティッサは黙っている。ソリヤはもどかしくなって、
「僕にもその卵ーー母さんをくれないか」
と叫んだ。
「とぼけたことを言うな。子が母を選べないことは、お前が一番よく知っているはずだ。どんな母親でも、子供は黙って受け入れるしかないんだ。どんな母親でも」
「いいや、僕は選んでみせる。何なら僕の次の母さんは、サーリーだっていい。いや、サーリーがいい。僕は夢が覚めたら、彼女に生んでもらうことにする」
「あれは俺の母さんだ!」
ウパティッサが太い声で怒鳴った。吊り上がった黒真珠の目でソリヤを睨み付け、
「銀貨を持たないお前を向こう岸に渡すことはできない。向こう岸に渡れないお前に、俺のサーリーをやることもできない。偉そうな口をきくな。お前は森を通りもせずに、あろうことか昼間に河原に落ちて来た軟弱者だ」
とまくし立てた。ソリヤは「君に何が分かるんだ」と切り返して、きっとウパティッサを睨み返した。ふたりのしばらくの威嚇は、小屋から出でたサーリーの仲裁によって止められた。
ウパティッサは「ソリヤ、お前も河原の子供らに混ざって骨でも積み上げてろ」と赤土に唾を吐き捨てると、「仕事に行ってくる」と小舟の方へと駆け去っていった。
サーリーは力なくうずくまり小刻みに背中を揺らすソリヤの髪を、そっと掻き撫でてくれた。ソリヤは、自分がかつてあんなにも恋うて夢見ていながら叶うことのなかったその頭上の感触に、震えて引きつる肩を止めることができなかった。
そうしている間にもまた川の向こう岸が燃え上がるように茜に染まり、夜は目も回るような速度で足早に近づいてくる。
ソリヤは乱暴に両目をぬぐい立ち上がると、旅人に布を手渡すサーリーの手伝いをしてやった。竿に掛けられた布を何枚も引き下ろしながら、焚火のそばで浮かび上がる旅人の顔をひとりひとり横目で確認したソリヤであったが、無論見知った顔なぞひとつもなく、彼は心細くなっただけであった。
そうして自身に向かって振り上げられることはないというサーリーの腕が、もう一度ソリヤに何かを差し出してくれることをずっと夢想していた。
松明を持ち銀貨を鳴らして帰って来たウパティッサが、遠く森のふもとまで歩いて行ったかと思うと、樹の根元に膝まづき接吻したのがかすかに見えた。
ソリヤはすぐに分かった、あれが
戻ったウパティッサが無言で小屋にもぐりこんだのを確認したソリヤは、無憂樹の下まで駆け寄ると、その根元に赤土をかけて両手で何度も強くこすりつけた。手のひらの皮が剥け、焼けたようにひりつく。そうしてウパティッサが接吻したあたりに、ソリヤは自身の接吻をべったりと塗り重ねた。花が咲くまでここで待っていようと、ソリヤは樹にもたれかかって空が白むのを待っていたが、サーリーが家に入ったのを遠目にするといてもたってもいられなくなり、結局小屋まで駆け戻っていった。
しかし簾を開けてみれば、サーリーの膝元にはすでにウパティッサが横たわっていた。孔雀の羽は黒肌の少年のためだけに優雅に上下している。
ソリヤはいつかの記憶のように、女の瞳がもう永遠に自分の方へ向けられない恐怖に駆られ、物干し竿に知らぬ間にか掛け直されている何枚もの綿布に、全身を包まれる安心感を求めた。狂ったように竿から布を引き剥がしていくと、その陰から鶏たちが飛び出して、ソリヤにちらと一瞥をくれると、赤土を軽やかに蹴って夜闇の向こうに消えていった。
ソリヤは両肩に何枚もの布を羽織ったまま、その場に立ちすくんでしまった。この布地の平織りの隙間隙間、縦糸の空間と横糸の時間のはざまに、鶏たちは朝を待ちながら眠っていたのだった。青色の布からは雄の、木蘭色の布からは雌の鶏が、派手に羽を散らして飛び出し、河原の向こうへと逃げ去って行った。ソリヤが改めて布を一枚一枚はたいてみても、もうどこからも鶏は頓狂な顔を覗かせなかった。
森から訪れた旅人たちは、あの朝陽を呼ぶ鳥を身に纏って、ウパティッサの漕ぐ舟に乗り、川向こうの王城へと向かっていったのだろう。
ソリヤは綿布の山を赤土の上に放り投げると、自身が着けた黒布を解いて、腕が千切れんばかりに揺すってみた。しかし乾いた音がするだけで、夜の暗がりに溶け込むまでに黒いその布からだけは、鶏はついぞ飛び出してくれなかった。
母親を孕んだ卵がソリヤの手に入ることは、もはやないのだ。
ウパティッサが小屋から出てくるまで、ソリヤは呆然と、瞬きもしないままその場につっ立っていた。土に汚れた布の残骸と、はためくものもない骨格のようになった竿の列を目にして、ウパティッサが、
「お前の仕業か」
と鶏がいなくなったことに気が付いて舌打ちをした。
忘我のソリヤをよそに、ウパティッサは無憂樹の下まで歩いてゆく。背の低い樹の枝には、朝露に濡れた、鮮やかな
「それは、君の花じゃない」
低い声がして、ウパティッサはびくりと横を向く。隈の浮いた瞼を震わせて、いつの間にかソリヤがウパティッサをねめつけている。
「それは僕のものだ」
「俺が接吻したから今朝咲いたんだ、これは俺の花だ」
「違う、君の接吻は僕が昨晩消してやった。その花は、僕の接吻で咲いたんだ」
ソリヤは見せつけるように樹から花房をむしり取ると、そのかたまりごと花を口に押し込んだ。途端に夢よりもまろやかな蜜の甘味が口いっぱいに広がる。
胃のあたりが熱く脈打つようにうずいてくるのを感じた。花の香りが鼻の奥をツンと刺激する。サーリーの服と同じ香りであった。膝上に寝かせてくれた時に、頭を撫ぜてくれた時に鼻先をかすめた、あのにおい。
ソリヤは、ウパティッサが自身と同じ花をくわえていることがいけ好かなかった。
「今すぐその花を寄越せ」
ソリヤは花ごと蜜を飲み干して、ウパティッサに言いつけた。
「お前こそ、これ以上その花に触るな」
くわえた花を大切そうに摘まみ舐めて、ウパティッサもソリヤに言い放つ。
先に手を出したのはソリヤだった。ウパティッサの手の中の花を奪い取ろうと獣のように飛び掛かる。それを身軽に避けたウパティッサは、ソリヤの割れた唇に張り付き残ったままの花を剥ぎ取ろうと、彼の胸ぐらをむんずと掴む。揉み合いになった彼らは赤土を散らして、息荒く上下を反転させた。
そうして相手の腹上に馬乗りになり頭をぐいと掲げたのは、ソリヤであった。
ソリヤは雄たけびの代わりに赤い汗を散らし、ウパティッサの顔に覆い被さるや否や、彼の唇ごと花をくわえて引きちぎった。
ウパティッサが森中をつんざくような悲鳴をあげる。ソリヤはウパティッサの肉と共に花をむしゃむしゃとしながら、少年の長い首に両の爪を食いこませた。
白昼を告げる野鳥の三度の声がする。その激しいさえずりに断末魔はかき消され、ウパティッサの頭はついに力なくあらぬ方向へと傾いた。
立ち上がったソリヤは後ろを振り返った。悲鳴を聞きつけたサーリーが、そこにぽつんと立っていた。
「ウパティッサを殺しましたね」
と彼女は言った。
「貴女の花をくれなかったんだ」
ソリヤはそう言って、サーリーに弱々しく手を広げて見せた。その手はかつてない力でウパティッサの首を締めたせいで、汗に濡れ光り、ぶるぶると震えていた。
「僕、貴女に次の母になってほしい。貴女に、生み直してほしいんだ」
ソリヤは言う。
サーリーは紅い唇をゆがめて、喉奥だけを鳴らして笑った。
「貴女はもう、二度と生まれることはできません」
サーリーの唇が耳まで裂け、口先は尖って硝子のように固い音を立てた。波打つ長い黒髪は霜が降ったかのよう白く透き通り、陽光を乱反射させながら逆立つと扇子のように颯爽と広げられる。体に巻いたの布は両脇にひるがえって突風を巻き起こし、乳白色の翼となった。
「この国に昼に訪れた者が迎えるのは、決まって夜なのです。去り際を忘れてしまった夜から、貴方はもう逃れることはできなくなりました。さようなら、朝を迎えることが出来なかった、哀れな
川の上流の方面から、地を揺るがすような轟きが聞こえ、見る間に遠方から巨大な鍵爪のような津波が押し寄せてきた。サーリーだった舎利鳥は翼を太陽の光線のごとく広げ、高らかに鳴き声を上げる。それはソリヤが昼夜に三度ずつ聞いた、あの美しく悲痛な声であった。
舎利鳥が飛び立った瞬間、その場は水に飲まれ、豪流は赤土と蒼い木々と一緒くたにソリヤをあっという間に飲み込んでしまった。
泥水に洗われた無憂樹が一斉に花を巻き上げ、橙に染まる渦の中、ソリヤはすべてが終わったことを悟り、ぼんやりと思った。
川の向こうに、渡らなきゃ。
しかしウパティッサを失った川はもはや境界としての役割を放棄して荒神のごとく氾濫してしまい、「向こう岸」がどちらにあるのかも、ソリヤには分からない。
森林にそびえ立っていた祠堂を探そうと水中を見回した彼の目の前を、ラテライトの赤い欄干や連子が沈んでいった。苔むした回廊には濁流が押し入り、あぶくを吐きながら堂宇は崩れ落ち、多頭の蛇や着飾った踊り子の石像は水中の塵芥にまみれて瞬く間に見えなくなる。ソリヤは川水にさらわれてすぐに視界から消えてしまったその光景に、王城たる伽藍の崩壊を悟った。
やがて明けない夜が訪れるであろう。川を渡ることのできなかった漆黒の衣を纏う者は、その夜に縫いつけられて、自分を抱きしめることのなかった母を恨み、しかし永遠にその名を思い出せないまま、暗い海原を彷徨い続ける。
深い海と化した森林の木々は適度に間引かれて、その合間を縫うようにして列車が走り来る。鉄色の熱風に洗われながら、海底の瓦礫と雑草がソリヤを手招いている。
口の中に残った甘やかな花の残骸を飲み込むと、ソリヤは黒い胸びれを動かして、濁流の底へと沈んでゆく。
そうして小さな黒魚は、はじかれたパチンコ玉のように、水中の錆びた線路の上に身を躍らせた。
若き太陽はこうして死んでゆくのだ。何度も。何度も。何度も。
了