さかしま劇場

つれづれグランギニョル

湯船にお湯が溜まりません

 今年は暖冬だとは言うけれど、冬は冬である。寒いことに変わりはない。

 凍えて帰宅した時、時折浴槽にお湯を溜めようとする。そして途中で諦めて栓を抜いてしまう、ということをよくやる。

 今の賃貸に引っ越してもう3年になるのだけど、この部屋の湯船には未だに一度も浸かったことがなかった。

 ひとり暮らしで贅沢に水を使う気にならないだとか、いつも烏の行水で湯船でまったりする習慣がないだとか、こまごまとした小さな理由はあるけれど、一番の理由は、何故かウチの浴槽にはお湯が溜まりにくいということだった。

  ゴム栓をする。赤ラベルの蛇口をひねる。アクアマリンのさざ波を立てて、足首まで水面がせりあがってくる。

 けれどいくら待っても、それ以上浴槽が満たされることはない。

  まさか浴槽に目に見えないヒビがあって、そこからお湯が流れ出ているワケでもあるまい。もしかすると、ゴム栓がゆるくなっているのかもしれない、と思った。栓を交換すれば、すぐにでも並々とお湯をたたえた浴槽ができるかもしれない。

 けれど生粋のめんどくさがり屋がそんな手間を掛けられるワケもなく、いつも途中までお湯をためては、その一向に溜まらないお湯が身体を温めることもないまま冷めていく時間の長さに辟易して、栓を抜く、ということを繰り返している。

 結局毎度まばたきもしないまま、熱いシャワーに打たれたままになっている。

 

 

 

 去年の末に、中学以来の友人と久しぶりに会った。もともと友人が少なく、10代の頃からの友人となると片手で数えるほどしかいない僕にとっては、貴重な再会だった。

 十年ぶりに会った友人は、とても垢抜けていて、栗色に染めた髪の合間にシャンパンゴールドの竪琴のようなピアスをのぞかせながら、柘榴色の唇にずっと笑みをたたえていた。

 その両手のジェルネイルが綺麗で、僕はマニキュアしか施したことのないがさついた手を、あまりディナーテーブルの上にあげることができなかった。友人のネイルは、キーボードの上を明星のあかるさで走り、男の肌の上を犂星の淡さで明滅するような色をしていた。

 友人は恋人の話をした。「恋人が転勤で関西に帰ることになった」という。しかし彼女はここ、東京で仕事のキャリアを積んできた。それを捨てて恋人と地元に帰るかどうか、迷っているらしい。

 「恋人とはいずれ結婚したいと思っている」と彼女は目を細めた。「でも自分のやりたいことも捨てたくない」と、入念に手入れされた指先をいじりながら。

 僕はその時どういうアドバイスをしたか、あまり覚えていない。ただ、キャリアだとか結婚だとか、普段僕の周りであまり耳にしない言葉に、妙に感心していたような記憶がある。

「すごいなァ」

 なんて言葉が口を突いて出た。

「何ゆうてんねんな、荊冠ちゃんの方がすごいわ」

 と友人は笑った。中学生の頃、今と違って随分とマジメキャラの風があった僕を、彼女がよく褒めてくれたことを、何となく思い出した。

 

 

 

 その晩僕は呑みすぎて、始発駅まで友人に担ぎ運ばれるという醜態だった。

 電車に放り込まれる時に、友人に「ゴメン」と謝った。友人は笑って、「絶対また会おうなァ」と言ってくれた。柘榴色の口紅の剥げていない、綺麗なままの唇だった。

 そのあと彼女には会っていない。連絡もしていない。噂によれば、恋人と関西に帰ったらしい。

 

 

 

 先日、東京に初雪が降った。早朝の間だけで、すぐに冷雨に変わってしまったけれど、その日の東京はいつもの冬日和とは打って変わって、随分と冷え込んだ。

 僕はそれで、今年初めて湯船で温まりたくなって、浴槽の中に三角座りをしながらジッとお湯が溜まるのを待ってみることにした。

 垢抜けた友人の顔が脳裏に浮かんできた。みんな何も言わないけど、ちょっとずつ人生の経験値を貯めてるんだなァ、と思った。

 お湯は足首辺りまで溜まった所で、やっぱり水位をあげるのをやめる。毎日風呂に入っているのは皆同じはずなのに、僕の湯船には、いつまでたってもお湯が溜まらない。

 僕は入浴を諦める。また途中で湯船のゴム栓を引き抜く。

 排水溝に呑まれていくお湯の音だけが、いつも哄笑のようにけたたましい。

 

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