『ミッドサマー』で浄化された話 その①原始宗教、民俗編
アリ・アスター監督『ミッドサマー』、映画館に行って観てきました。
「狂気の祭」なんてキャッチコピーにも書かれたりしていて、一体どんなトンデモサイコ映画なんだろう、なんて内心ちょっとドキドキしたりもしてたんですが、
観終わって映画館を出た時、ジェットコースターに乗り終わった後のような興奮はまったくありませんでした。むしろ無限の静寂。まるで閉園後のディズニーランド。
エッ、、むっちゃ浄化されたんだが……???
遊園地に行こうと思って入ったら実はそこお寺でした、みたいな超展開。ミッキーマウスすら満面の笑みを忘れて無の表情になるほどの超ビックリ。
一応言っておくと、僕は「初カキコ…ども…」みたいな「グロ耐性ありますけど何か^^;」みたいな厨二ドヤァがしたいワケではないです。
『ミッドサマー』は、僕自分が普段美しい、好ましいと感じる事物を、僕が美しい、素晴らしいと感じるような方法で調理してくれている作品でした。その感性のマッチングがすさまじいカタルシスを引き起こして、エレクトリカルパレードを見ていたはずが悟りを得た、みたいな状態になったという。
ということで『ミッドサマーの』色んな魅力の中でも、個人的にここにグッと来たというポイントを、以下の5つに分けてピックアップして語りたく思います。
この中に惹かれる項目があったら、『ミッドサマー』の浄化作用を受けられる可能性大なので、ゼヒ映画館へ涅槃を獲得しに行ってください。今回はその①「原始宗教、民俗のエモさ」についてです。
※本記事はネタバレを多大に含んでおりますので、未鑑賞の方はご注意ください。
簡単なあらすじ
まず簡単にだけあらすじを説明しておくと、主人公はダニー(dani)という名前の、アメリカの女子大生です。花冠かぶってギャン泣きしている顔がポスターになっていて、映画観る前からいかにもかわいそうな感じが伝わってきますが、冒頭で家族を無理心中で失ってしまって、もとから不安定だった精神がさらに不安定になってしまいます、やっぱりかわいそう。
そんな彼女が、彼氏と、彼氏の友達3人と一緒に、夏休みにスウェーデンのホルガという村に旅行に出かけます。男性陣はスウェーデン女性とS〇Xしまくりたい、というとても健康的な下心付きです。ホルガ村では、独自の宗教勘に基づいた夏至祭が行われるのですが、そこで女性とS〇Xができると聞いたからなんですね。鬱のドン底にいるダニーとの温度差で観てる方が風邪ひきそう。
そしてホルガ村のお祭りに参加した主人公たちが、どういう風になっていくのか、というのが、大まかな話の流れです。
舞台がスウェーデンだという時点で血生臭はお察し
『ミッドサマー』で主人公たちが訪れるスウェーデンのホルガ村は、架空の村ですが、ペイガニズム(というと侮蔑的な意味合いにもなるらしいので適切でないかもしれませんが)――古い自然崇拝や多神教的な信仰の中で人々が暮らしています。
スウェーデンって今でこそ社会福祉の進んだ先進的な国家というイメージですけど、ヨーロッパ圏の中でも、キリスト教が12世紀頃(日本でいうところの鎌倉時代)まで浸透しなかったという過去があって、キリスト教圏からしてみれば長らく未開の、文明の遅れた土地だったらしい。
もともとは、知恵の神・オーディンを最高神と崇める北欧神話を基本的に信奉していた、ヴァイキングの土地でした。
しかしそのヴァイキングが近辺の海で略奪行為をするので、西ヨーロッパ諸国はおこ😡でした。そこでヴァイキングのキリスト教化が推し進められます。
言葉や居住地域が違っても信仰が同じなら、同じ文化圏の人間という認識が生まれます。「敵対勢力」ではなく、「同胞」という認識になるんですね。
例えば日本でも、古来各地に土着の宗教があったのが、飛鳥時代に大陸から仏教が渡ってきて、天皇を中心とした中央集権国家を作ろうという意図のもと国をあげて仏教が広められた歴史があります。
ヨーロッパでもそれと同じように、異郷のヴァイキングのキリスト教化が進められていき、12世紀になってようやくスウェーデンもほぼキリスト教圏になった、というワケです。
キリスト教に染まっていないホルガ村をスウェーデンに設定した理由のひとつには、スウェーデンのこうした歴史を鑑みた、ということが挙げられるんじゃないかな~と思います。舞台設定からしてアツイ。
ペイガニズム映画のテンプレを全反転
ホルガ村は今だキリスト教を信仰していない、キリスト教圏からみれば「未開の」コミュニティですが、
よく考えれば、過去にこういう「未開の文化を持つコミュニティに迷い込んだ青少年が殺されたり食べられたりする」っていう映画はいくつも作られてるんですよね。『グリーン・インフェルノ』とかよく引き合いに出されますが。
大体こういう映画って、どれもジャングルの暗い奥底で肌の浅黒い人間が……というテンプレで、まァ差別的というか偏っていることもまた事実ですが。
『ミッドサマー』の構図自体は、こういう作品と全く同じだと思います。舞台が暗いジャングルから明るい山村に、肌の浅黒い人達が白人になっただけ。
今さら構図は目新しくも何ともないけれど、「こういう物語の構図ならこういう舞台背景、こういう部族が出て来るでしょ」という固定観念が全部反転されているので、それに衝撃を受けている人が多い印象です。
そのインパクトとグロさばかり語られて、ホルガ村のカルトの特徴やその行為の意味といったポイントがスルーされている(気がする)ので、原始宗教ヲタクは後者にこそ背徳のエモを感じてほしいです。
ホルガ村の儀式とその意味とは?
姥捨て伝説 北欧ver.
ホルガ村の70歳を超えた男女ふたりの老人が、「アッテストゥーパ(Ättestupa)」という儀式で崖から飛び降り、自らの命を天に返す、というシーンがあります。「アッテストゥーパ」というのはウェーデンで「崖」「絶壁」を意味するらしい。
作中では、「死んだ老人の名前は新しく生まれた赤子に授けられる」とまるで輪廻転生のように説明されていますが、半分姥捨て的な意味もあるんだろうと思います。
北欧ではその昔(と言っても先史クラスの大昔ですが)、老人が崖から自ら身を投げる、もしくは誰かに突き落とされるという儀式が実際にあったそうな。
貧しい時代、働けなくなった老人を切り捨てるというのは、世界の各地であったことなんでしょうね。日本でも働けなくなった老人を山に捨てて来る「姥捨て山」の民間伝承が残ってますし。
関係ない話ですが、同名の小説をもとにした『デンデラ』という映画は、この日本の姥捨て伝説を基にした話で、雪山でサバイバルしまくるパワフルなおばあちゃんたちが面白いのでオススメです。
まァ今現在のホルガ村に、働けなくなった老人を養う力がないのかどうかは分かりませんが、この儀式の始まりがそうした口減らしを意図していた可能性はありますね。
老人が死ぬことが良いとかいう話ではなく、ただ宗教儀式やコミュニティ内のルールというものは生きる厳しさの中から編み出されたものもあるワケで、
そうしたキレイごとに収まらないサバイブでシリアスな側面を想像すると、ヲタク心にはグッときます。
ちなみに、ノルウェーのヴァイキングを描いたNetflixのシリーズドラマ『Norsemen 』にも、アッテストゥーパのシーンがありました。
こっちは『ミッドサマー』の痛々しさはゼロの、まったくのコメディ調ですが。
信仰 ≫≫≫[超えられない壁]≫≫≫ 人命
『ミッドサマー』が怖いと言われる所以に、「村人を怒らせたらどえらい目に合う」というのがひとつ挙げられるのかな~、と思います。
いや、悪いのは怒らせた方なんですけどね。先祖代々伝わる大切な倒木にションベン引っかけたり、写真撮っちゃダメって言われてる聖書を夜中に盗撮したり。
他文化尊重できないマンが殺されるのは、ペイガニズム映画のお約束。
殺され方はそれぞれ、撲殺され土に埋められていたり、生きたまま解体されたり。特に後者については、先述の3つめの項目「魅惑の死体」にてまた詳しく語ります。
我々が生きる現代社会の倫理観からすれば、「例えキレ散らかしても厳しい社会制裁を受けることになるので人殺しはやめよう」となるワケですが(ちなみに日本の法律には「殺人をするとこのような法的制裁を受ける」ということが記載されているのであって「殺人がダメ」とは一言も書いていません)、
ホルガ村の人々は「このままでは神の制裁を受けることになるので人殺しをしよう」といった発想や感覚に近いんですね。
この信仰が優先されるあまり人命がどこまでも軽くなっていく世界、最悪なのが最高ですね~~~~!!
9人もの生贄は誰に捧げられているのか
ラストのシーンでは、夏至祭のクライマックスとして、外部からの旅行者と村人を合わせた9人の生贄が捧げられます。
基本的に生贄を捧げるという行為は、信仰する神や大きな力に対して「こうしてほしいんですけどこれだけ生贄あげるからどうにか頼めませんかね」と祈りを伝えるために行いますが、ホルガ村では「何の願い」のために、この9人もの生贄を「何の神」へ捧げているのかな、とちょっと考えました。
物語冒頭で長老が村人たちに「多くの恩を返さなくては」と祝祭の始まりを告げる通り、祭りを執り行い生贄を捧げる目的は、90年間の恵みに感謝して、「次の90年間も頼んますわ」と神に祈るためだと思われます。
ではその神は、いったい何の神なのか?
ホルガ村の人々が信仰している神や神話がどういったものなのかは作中では詳しく語られませんが、生贄が安置されて火を付けられる小屋の内側に、とあるルーン文字が書かれています。
作中であまたに登場するルーン文字が、ゲルマン共通ルーン文字と呼ばれる、ルーン文字の中でも最も古い体系のものであるのに対して、
このルーン文字だけアングロサクソンルーン文字という、イングランドを中心に使われたちょっと新しめのルーン文字です。
文字の名前は「Gar」といって、Spear(槍)を意味しています。
北欧神話で槍と言えば、オーディンが持っている最強のブーメラン槍「グングニル」ですね(投げると百発百中で手元に戻ってくるチート武器)。
オーディンはルーン文字を得るために、ユグドラシルの樹で首を吊ってこのグングニルで自分を突き刺し、9日9晩耐え抜いたというあたおかエピソードの持ち主ですが、
それはさておき、このGarというルーン文字がオーディンの象徴でもあることから、生贄はオーディン、あるいはオーディンも含む北欧神話の主神たちに捧げられていたのではないか、と思いました。
それが変質して、ホルガ村オリジナルのカルトと化している可能性は十二分にあるので、我々の想像するあのオーディンとホルガの村人が崇めるオーディンが同じ神なのかは分かりませんが。
まァさらに言えば、オーディンを信奉していた時代のルーン文字だけが形骸として引き継がれているだけで、今はまったく別の神に信仰が向いている可能性も無きにしもあらずなので、断定的なことは全く言えないんですけどね。
古来からスウェーデンに根付いていた北欧神話がホルガ村の信仰の下敷きにあると想像すると、ワクワクするゥ~~!!という超個人的な性癖の話でした。
信仰が時代や地域と共に変質して、カルトや密教と化していく際に起こる歪み方や、ゴリ押し超解釈には、いつも興味をそそられますね。
(日本だと神道の「常世」と仏教の浄土思想が融合して、観音浄土を目指してと死ぬこと前提で海に流される捨身行・補陀落渡海とかヤバイですね)
意図的に実施/回避される近親相姦
デニーの彼氏・クリスチャンが、ドラッグで酔わされホルガ村の少女・マヤと性交してしまう、という一種のNTR要素がある『ミッドサマー』ですが、
マヤはクリスチャンにもとから気があったとはいえ、最終的にふたりが一緒になって良いかどうかは、長老が占いによって判断しています。
なぜ自由恋愛の上で相手を決められないのかという理由のひとつに、「近親相姦を避けるため」というのがあるでしょう。
ホルガ村はとても小さなコミュニティです。その中でだけで子孫をつないでいけば、血が濃くなるのは当たり前で、それを回避するためにクリスチャンのような外部の人間から子種をもらって村を存続させています。
反対に、俗世の穢れがない(現代社会では障害者と呼ばれる)子供を授かりたい時は、近親相姦を進めているらしい。
ちなみに今後役に立つことはないだろう豆知識ですが、この「近親相姦における奇形児が生まれるリスク」というのは、1代限りであれば、赤の他人同士が生殖した場合と比べてほとんど変わらないそうです。
この近親相姦がさらに2代、3代と続いた場合に、そのリスクが飛躍的に上がるという話。
あと日本の法律では、相手が成人していること、合意のもとであることは大前提として、近親の性行為自体は禁止されてません。禁止されているのは、3親等内での結婚です。
またこの3親等というのも国によってマチマチなので、日本だと4親等以上であれば、いとこ同士でも結婚OKですが、それがダメな国もあるし、反対にいとこ同士の結婚の方がメジャーな国もあります。パキスタンなどは、今も結婚の半数以上がいとこ同士らしい(結婚の70%以上がいとこ同士というデータもあるそうな。ホンマかいな)。
話が逸れましたが、つまるところホルガ村で行われる性交の一番の目的というのは、快楽ではなく生殖にあるんですね。
大切なのは個人間の愛ではなく、共同体への献身愛です。
そういった思想への否定から現代の自由恋愛市場は生まれているワケですが、種の存続のために個々人の意思が二の次にされるプリミティブ世界、創作の舞台としてはエモさ200満点です。
その①まとめ
ということで、現代社会の中であれば批判されるであろうことがホルガ村では行われていますが、こういった要素が背徳的な魅力を放つこともまた事実。
その中でも今回は、ホルガ村の原始宗教や民俗的観点から見た感想をピックアップしてみました。プリミティブな美しさ、それは恐怖や狂気と紙一重にあるからこそだと思います。
その②「美しいものが破壊される瞬間のカタルシス」に続きます。